2022年9月26日(月)

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聖書一日一章     コリント人への手紙第二 8章

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満ちあふれる喜びと極度の貧しさ。(2節)

パウロはここでは、献金について語ります。この献金はパウロが広く異邦人教会に呼びかけている、エルサレム教会への献金です。エルサレムのクリスチャンたちが、当時、ききんか迫害かで窮乏していたようで、彼らを援助するためのものでした。異邦人教会とユダヤ人教会が一つの教会であるためにも大切なことだと、パウロは考えていたようです。そのことで、マケドニアの諸教会、つまりピリピやテサロニケの教会が、どんなに熱心に献金をしたかを話し、コリントのクリスチャンたちを刺激します。献金の意義として、キリストがご自分の富をささげられたことで今の自分たちの霊的豊かさがあることを感謝しなければならないこと、豊かな人のゆとりが乏しい人の不足を補って、みんなが平等になることを教えます。

さて、2節では、「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました」と言います。ここには普通は同時にありえないことが同時にあります。「苦しみによる激しい試練」のときには「満ちあふれる喜び」はないものです。また、「極度の貧しさ」のときには「惜しみなく施す」ことはできないものです。もし、人間の熱心さや頑張りでできているのであれば、それは、気味の悪いことであり、カルト宗教の無茶苦茶な寄付集めです。しかし、聖霊が働かれるときには、人間の熱心や頑張りなどではなく、自然な形でそんな不思議なことが起こるのです。マルコの福音書12章で、貧しいやもめは献金箱に、持っていたすべて、レプタ銅貨2枚を投げ入れましたが、夫をなくした悲しみの上に無収入という試練の中にあったのに、そうしたのは、きっと聖霊が働かれ、神の愛を深く感じていて、喜びにあふれていたからでしょう。彼女は無一文になりましたが、きっと聖霊は、だれかの心を動かして、彼女にお金を与えたか、あるいは、彼女を家に招き、彼女が夕食を食べることができるようにされたことでしょう。私たちもそのような聖霊の働きをしばしば経験しています。

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