2022年9月29日(木)
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聖書一日一章 コリント人への手紙第二 11章
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愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。(21節)
パウロは1節で、「私の少しばかりの愚かさを我慢してほしい」と言って、自分が信仰の教師としてふさわしい根拠を22節以下で語ります。信仰の民イスラエル人であり、信仰の父アブラハムの子孫であり、何よりもキリストのしもべだと言います。さらに、キリストのために、むち打ち、石打ち、難船、盗賊の被害、同胞と異邦人からの迫害、飢え、寒さなどの苦労をしてきたと言います。パウロがそんなことを話すのは、よそからやって来て、信仰の教師と自称し、異なった教えを広めていた人たちが、自分たちこそ信仰の教師としてふさわしいと自己宣伝していたからです。パウロは彼らのことを「偽使徒」、「サタンのしもべ」と言い、そんな人たちにクリスチャンたちがだまされ、汚され、純潔を失ってしまうのではないかと心配していました。それで、彼らの自己宣伝を鵜呑みにしてしまわないように、不本意ながら、自分が彼ら以上に信仰の教師としてふさわしいと語るのです。
さて、パウロは自分の血統やキリストのための苦労を語るのに、語らざるをえないが、愚かなことだと何度も何度も繰り返しています。これはこの世の常識とは大きく違う点です。大したこともないのに自慢するのは愚かですが、人一倍苦労した人は、その苦労話を誇らしく語りますし、生まれ持った才能や受けてきた教育は、誇りに思うのが普通ではないでしょうか。
しかし、神の前では、誇れません。生まれたときに才能を与えられたのも神、良い教育を受けられるよう恵まれた家庭を備えられたのも神で、自分の功ではありません。また、苦労をしたと言っても、乗り切れたのは、神が力を与え、手を取り足を取り助けてくださったからで、自分の誇りにはなりません。その上、人は、何かをするごとに罪を犯す者で、誇りよりも恥を上塗りしている者で、キリストを信じる者は、その罪を無償で赦してもらったのです。20節では、「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」と言います。弱さは誇れることではありませんが、弱さが多ければ多いほど、それだけキリストに助けてもらっていることになり、キリストを誇ることになるからです。前の章にあったように、「誇る者は主を誇れ」です。
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