2022年10月2日(日)
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聖書一日一章 ガラテヤ人への手紙 1章
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人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべでは
ありません。(10節)
この手紙はパウロが小アジア、現在のトルコの中央部のガラテヤ地方のクリスチャンたちに送ったものです。パウロは、コリント人への手紙で、異なる信仰を広める人たちのことを憂えていましたが、ガラテヤのクリスチャンの間にも入り込んでいたので、危機感を持ってこの手紙を書いたようです。
さて、10節で、「もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません」と言います。しもべは主人を喜ばせようとするものですから、もし自分が人々を喜ばせようとしているのなら、人々のしもべということになりますが、そんなことはありません。パウロは全身全霊、キリストのしもべで、人々を喜ばせようとせず、いつもキリストを喜ばせようとしていました。しかもそれを誇りに思い、喜んでいたのです。
一般に、しもべは地位が低く、命令に従わなければならないので、だれも好みません。仕方がなくしているのです。しかし、同じしもべでも、キリストのしもべは、まったく違います。主人であるキリストがすばらしいので、そのしもべも幸せなのです。たしかにしもべである限り、自分の思うようにはできませんが、キリストは絶対間違いのない主人なので、自分の思うようにするよりも、従うほうがずっと世のためになり、自分のためにもなります。しかも、従うと迷うことも悩むこともありません。また、王のしもべが王宮で王の軍隊に守られているように、キリストのしもべも神の力に守られています。また、愛情深い主人のしもべが主人に可愛がられるように、だれよりも愛情深い主人であるキリストに可愛がられます。また、偉い人には普通の人はなかなか面会できませんが、その人のしもべはいつもそばにいることができます。同じように、キリストのしもべもいつもキリストのそばにいることができます。しもべの務めが主人を喜ばせることとは言え、ベテランのしもべになると主人が喜ぶのが何よりもうれしくなるように、キリストのしもべも、キリストが喜ばれることが、何よりもの喜びになります。キリストのしもべにとって、キリストは誇りであり、喜びです。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成