2022年10月3日(月)

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聖書一日一章     ガラテヤ人への手紙 2章

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神に生きるために、律法に死にました。(19節)

1節では、「14年たって、私はバルナバと一緒に再びエルサレムに上りました」と言います。これは使徒の働き15章に記されているエルサレム会議のことで、パウロが初めてエルサレムの使徒たちを訪問してから14年後のことでした。この会議のことを語っているのは、異邦人のクリスチャンはユダヤ人の宗教生活を守る必要がないことを公式に認めた会議だからです。ガラテヤのクリスチャンたちに異なった教えを広めていた人たちは、その必要を主張していたので、彼らに対抗するための根拠だったのです。

さて、パウロは、異邦人クリスチャンにユダヤ人の宗教生活を要求することには大反対でしたが、ユダヤ人の宗教生活を無価値だと思っていたわけではありません。それどころか、15節で「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません」と言っているように、ユダヤ人を聖なる民、その宗教生活を神を礼拝する聖なる生活と考えていました。

しかし、16節では、「人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」と言います。キリストへの信仰のために、また、その信仰によって人々が救われるために、自分が大事にしてきたものを捨てたのです。それは、パウロにとって、財産を捨てるより、家族を捨てるより大きく、自分にとってすべてだったものを捨てることでした。ですから、19節で、「私は、神に生きるために、律法に死にました」と言います。キリストを信じて生きるために、いのちほど大事なものを捨て、ほとんど死んだのです。このことを考えると、そのすぐ後の「私はキリストとともに十字架につけられました」という言葉は意味深長です。パウロがいのちほど大事なものを捨てる前に、キリストはパウロのためにいのちを捨てられたのです。それだから、パウロは、ユダヤ人の宗教生活を捨てることができたと言えます。新聖歌102番の歌詞を思い出しました。「主は命を与えませり。主は血潮を流しませり。その死によりてぞ、われは生きぬ。われ何をなして、主に報いし。」

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