2022年10月5日(水)

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聖書一日一章     ガラテヤ人への手紙 4章

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上にあるエルサレムは自由の女です。(26節)

パウロはここでは、律法に縛られた人と、キリストによって律法から解放された人とを、たとえで比較します。一つは、財産家の相続権を持つ子のたとえです。子どものうちは、後見人の管理下に置かれ、自由がなく、お金を使うこともできず、奴隷と変わりませんが、ある日、全財産の所有者となります。同じように、律法に縛られた人がキリストによって解放され、神の子どもの身分を受けるのです。一つは、アブラハムとその妻サラとから生まれたイサクと、女奴隷ハガルとから生まれたイシュマエルのたとえです。女奴隷の子イシュマエルが律法に縛られた人を指し、サラの子イサクがキリストによって解放された人を指しています。それ以上の深い意味はよくわかりません。ただ、あれっと思ったのは25節です。「このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります」と言います。シナイ山とエルサレムはまったく別の場所ですが、どちらもユダヤ人にとって大事な場所です。シナイ山は、モーセが十戒を与えられた場所ですし、エルサレムは言うまでもなくユダヤ人の都で、宗教の中心、神殿のある場所です。そんな大事な場所は、ユダヤ人の正統な先祖イサクに結びつけるのが普通ですが、奴隷の女ハガルに結びつけているのです。これはユダヤ人にとってはひどい侮辱で、人々が「われわれの一番大事なものをバカにするのか」と怒鳴って来そうです。逆に言うと、キリストの救いは、ユダヤ人の一番大事なものを捨ててしまわなければならないほどの大変革だということです。迫害されるのも当然です。私たちにとっても、キリストの救いは、自分の一番大事なものを捨ててしまわなければならないほどの大変革でした。しかし、捨てたことが苦にならないほど、得られるものが大きいのです。26節では、「上にあるエルサレムは自由の女です」と言います。私たちはキリストによって今律法から解放されているだけでなく、やがて天上のエルサレムとそこにある全き自由に行き着きます。ヘブル人への手紙12章22節は言います。「あなたがたが近づいているのは、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、新しい契約の仲介者イエスです。」

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