2022年10月9日(日)

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聖書一日一章     エペソ人への手紙 2章

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あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(5節)

 パウロはキリストの救いが神の永遠のご計画によることを述べましたが、ここでは、神の深い恵みによることを述べます。神の恵みが何であるかは、ここで一番よくわかります。1節では、エペソのクリスチャンたちのことを「背きと罪の中に死んでいた者」だと言い、自分たちについては、「かつては自分の肉の欲のままに生き、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」と言います。肉欲のままに生きる者、神の怒りの的、神の目には死んだも同然だったのです。そんな者を、5節と6節では、「キリストとともに生かし、ともに天上に座らせてくださいました」と言います。神の救いは、まじめにやっている人を助けるとか、不慮の災難にあった人を助けるという類のものではありません。愚かでどうしようもなく、助ける価値がない者を、生き返らせ、天にまで引き上げるというものです。救う程度が尋常ではありません。

8節と9節では、「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。行いによるのではありません」と言います。私たちがよく知っている信仰義認の教えです。普通なら、悪いことをしている人は、立ち直るきっかけを与えることはあっても、心を入れ替え、良い歩みをし、良い行いをして初めて受け入れるものです。それなのに、信仰だけ、それもまじめな信仰生活ではなく、キリストを救い主と信じて頼るだけで、神は受け入れられるのです。しかも、神は行いを軽視しておられるわけではなく、それどころか、切実に良い行いを望んでおられるのですが、10節では、「神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」と言います。つまり、良い行いを要求したり、強制するのではなく、良い行いができるように、内からその性質を変え、動機と力を与え、何から何まで備えられるというのです。聖霊を与えられるのはそのためです。

8節では、「それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」と言います。神が私たちを救われる理由は、私たちにはないということです。悪いことをしているが、いい所もあるとか、将来役に立つとか、そういう理由はないのです。ただ、ご自身がかわいそうに思い、恵まれたことだけです。

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