2022年10月27日(木)
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聖書一日一章 テサロニケ人への手紙第二 1章
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主イエスは来て、感嘆の的となられます。(10節)
パウロはここでは、テサロニケのクリスチャンたちが迫害の中で信仰をしっかり保っているばかりか、信仰において成長していることをほめ、世の終わりのさばきの日に、神が安息を与えられること、苦しめている者どもには罰を与えられることを語って励まします。また、キリストの再臨を思い起こさせ、そのときキリストが栄光を完璧に受けられるように、キリストの召しにふさわしい者となり、信仰に基づいて善い行いをするようにと祈ります。
さて、10節では、「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます」と言います。キリストは、再臨されるとき、すべての信じる人々からあがめられるばかりか、感嘆の的になられると言うのです。感嘆の的と言えばどんなことを思い浮かべるでしょうか。昔、東京オリンピックで日本の女子バレーボールチームが金メダルを獲得したときには、日本中の感嘆の的でした。東京通信工業という小さな会社が世界に先駆けて携帯できるテレビを製作したとき、日本中の感嘆の的でした。アポロ11号の飛行士が初めて月面に降り立ったとき、世界中の感嘆の的でした。五島みどりという8歳の女の子がニューヨーク・フィルハーモニーの演奏会で独奏したとき、世界中の感嘆の的でした。
そんなふうに、人間の活動の中でも、人々がそのすばらしさに驚き、感嘆の的になることがありますが、キリストが再臨されるときには、それとは比べものにならないほど、大きな感嘆の的になるのです。キリストが再臨されるときの栄光は、この世のどんなものにもたとえることができませんし、想像することもできません。ただ感動で体が震えるでしょう。息もできないほどでしょう。喜びのあまり心臓がドキドキして気を失ってしまいそうになることでしょう。
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