2022年11月16日(水)

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聖書一日一章     ヘブル人への手紙 4章

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信じた私たちは安息に入るのです。(3節)

この手紙は、旧約聖書の言葉をキリストの救いと関係づけて説き明かしていますが、ここでは、前の章で取り上げた詩篇95篇の一つの節、「彼らは決して、わたしの安息に入れない」に焦点を当てます。神からそのように宣告された人々のように、神が備えられた安息に万が一にも入れないことがないように、同じ詩篇の別の節、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」をもって戒めます。そして、私たちの弱さを知って同情される偉大な大祭司キリストに頼るように勧めます。

ところで、「安息」とは何のことでしょうか。4節によると、創世記2章の、神が天地創造の第7日に休まれたことだとわかります。神は休まれただけではなく、創造したものを鑑賞して、喜び楽しまれました。その休みと喜びと楽しみが安息です。私たちの曜日でしたら、再び第1日になり働く日が始まりますが、天地は完成したので、再び働かれることはなく、第7日がずっと続くことになりました。だとすると、それからの世界はすべて安息です。その安息の世界をぶち壊したのは、アダムとエバの罪でした。それ以来、地は荒廃し、食べるために汗を流して働かなければならなくなり、人に仕えて生きなければならなくなりました。安息の世界がなくなってしまったのです。

しかし、著者は1節で、「神の安息に入るための約束がまだ残っている」と言います。神が人間のために別の安息の世界を備えておられるということでしょう。しかも、3節では、「信じた私たちは安息に入る」と言います。キリストを信じる者はその安息の世界に入れるのです。これは私たちにとってどんなに大きな希望でしょうか。私たちの人生にはほとんど安息がありません。働かなければ、食べていけません。人に仕え、嫌なことも我慢しなければなりません。たとえ、お金があって働かなくてよくても、いつ病気になるかわかりません。あるいは、災害や事故にあう恐れがあります。あるいは、事件やトラブルに巻き込まれるかもしれません。自分は大丈夫でも、家族が困ったことになるかもしれません。ほんとうに気の休まるときがありません。そんな私たちにとって、安息の世界は、垂ぜんの的です。早く入りたいです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成