2022年11月17日(木)
_____________________________________________________________________________
聖書一日一章 ヘブル人への手紙 5章
_____________________________________________________________________________
その敬虔のゆえに聞き入れられました。(7節)
著者はこれまでも、キリストを大祭司と呼んでいましたが、ここで改めて、イスラエルの大祭司のことを説明し、キリストがどういう点で大祭司なのかを解説します。
さて、7節で、「キリストは、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました」と言います。神がキリストの祈りを敬虔のゆえに聞き入れられたということは、神が敬虔を何よりも望まれるということです。聖書全体が私たちに敬虔であるように勧めています。アブラハムやダビデやエリヤやダニエルなど敬虔な人々の生涯を描いています。詩篇はまさに敬虔な人々の祈りです。新約聖書は、キリストが来られた目的が、人々が悔い改めて神に立ち返り、敬虔な生き方をするためだと教えています。また、キリストはマタイの福音書22章で、「どの戒めが一番重要ですか」と尋ねられて、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われました。これこそ、敬虔です。
同時に、キリストはにせもの敬虔を嫌われます。マタイの福音書6章で言われました。「祈るとき、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。」私たちもクリスチャンの交わりの中にいると、敬虔であるように見せかける誘惑があるので注意しましょう。
最後に、パウロは回心する以前も敬虔な生活をしていましたが、神のさばきを恐れてのことでした。それは真の敬虔ではありません。真の敬虔は神を愛し、喜ぶことです。キリストが死なれたのは、私たちが罪を赦されて恐れから解放され、神を愛し、神を喜び、真に敬虔な生き方をするためです。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成
