2022年12月8日(木)

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聖書一日一章     ペテロの手紙第二 3章

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千年は一日のようです。(8節)

ペテロはここでは、世の終わりが近くなると、キリストの再臨を否定する者たちが現れると予想し、そういう人たちを想定して話します。地は水からなった、これは創世記1章で記されていることですが、そうなので、いつ滅びてもおかしくなく、世の終わりに天からの火によって滅ぼされるまで、保たれているだけだと言います。また、キリストの再臨が遅いのは、神がすべての人の悔い改めを望んでおられるからだとも言います。しかし、その日は突然やって来るので、敬虔な生き方をして、備えるようにと勧めます。

さて、8節では、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と言います。キリストの再臨は、待ってもなかなか来ないことで、いつまで待っても来ないのではないかと不安に陥るのは、だれにとっても同じです。ペテロの時代の人々もそうでしたし、2千年も経った私たちはなおさらです。しかし、無限なる存在である神にとっては、千年も一日も変わりません。2千年も少しも長い年月ではないのです。

ところで、創世記1章には、神が6日間で世界とそこにあるすべてのものを造られたと記されています。その6日間があまりに短いので、科学によって推定される地球形成の長い期間とも、岩石などが長い年月かかってできただろうと思う私たちの直感とも合わず、戸惑います。しかし、創世記1章は、千年も一日のように思われる神の感覚で記されたのかもしれません。そうだとすれば、その1日は千年にも1万年にも1億年にもなるでしょう。

また、キリストはすべての人の身代わりに十字架で死なれました。すべての人の罪を贖うためです。その罪の赦しの効力は、当時の人々だけでなく、2千年後の私たちにも、また、何千年昔の人々にも及びます。キリストが逮捕されて、十字架につけられ、死なれるまで、半日も経っていません。その一日にも満たない時間に起こったことが、何千年もの時代の人々を救うというのは、千年も一日のように思われる神のなさるわざだからこそでしょう。

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