2023年1月12日(木)

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聖書一日一章    創世記 5章

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神の似姿として人を造られた。(1節)

最初の人アダムから大洪水の時代のノアまでの系図です。

さて、1節には、「神は、人を創造したとき、神の似姿として人を造られた」とあります。これは1章27節に、「神は人をご自身のかたちとして創造された」とあったのと同じです。これを文字通りに取れば、神は人間のような姿、頭や胴体や手足を持っておられるということになりますが、聖書全体を見ると、そうではありません。目に見えない存在だとか、どこにでもおられるとか、天も入れることができないとも言われています。パウロはローマ人への手紙1章23節で、人間が偶像を造ったことを、「朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました」と責めます。もし神が人間のような姿をしておられるなら、鳥や獣に似せるのならともかく、人間の姿で表してもよいはずです。それを責めているということは、人間のような姿をしておられないということです。ですから、私たちは「似姿」を抽象的な意味に取り、理性と意志、善悪の観念、損得を越えた愛情、正義と愛のためにはいのちもかける気概などと理解します。

しかし、当時の人々が、そんな抽象的なことを考えられたでしょうか。見えない、形のない人格的存在と言えば、ぽかーんとしたことでしょう。そのことは、実は、現在の私たちも同じなのです。やはり、神のことを思い浮かべるためには、自分と共有した多くのものが必要です。ないと、思い浮かべることも、祈ることも、愛することもできないのです。

それを考えると、神が人となられたということが、私たちにとってどんなに幸いなことかと思います。パウロはコロサイ人への手紙1章15節で言います。「御子は、見えない神のかたちです。」キリストは、目に見えず、思い浮かべることもできない神が、私たちと同じ頭や胴体や手足を持ち、私たちと変わらず、話し、歩き、食べ、抱き、眠る人間となられた方です。私たちは抽象的な神を礼拝するのではなく、人間となられたキリストを礼拝し、祈り、愛し、交わるのです。そこにはリアルな交わりがあります。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成