2023年1月28日(土)

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聖書一日一章    創世記 21章

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その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。(12節)

アブラハムと妻サラの子がついに生まれ、ヘブル語で「笑う」という意味の「イサク」と名づけられました。イサクが乳離れしたとき、サラは、先に生まれた女奴隷ハガルの子イシュマエルが彼をからかっているのを見、ハガルとイシュマエルを追い出すように夫に頼みました。アブラハムは悩んだ末、神の許しを得て、二人を出て行かせました。ハガルは荒野をさまよい、水が尽きて子が死にかけたとき、天からの声で近くの井戸に気づき、その水を飲んで生き延び、やがて子のイシュマエルは荒野の一つの民族となりました。

さて、アブラハムが悩んでいたとき、神が言われました。「サラの言うとおりにしなさい。あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。」ここで、神がサラの言う通りにするように言われたことは、正義に反するのではないでしょうか。生活のすべのない母親と幼な子を荒野に放り出すことは、人道に反しています。それに、もともとサラが自分たち夫婦の都合で子を産ませたので、実の子が生まれて、都合が悪くなると、出て行けと言うのは、あまりにも身勝手です。どうしてそんなことを許されたのでしょうか。私は将来の大きな悲劇を避けるためだったと思います。サラの身勝手には神もあきれておられたでしょうが、彼女の将来に対する直感は、間違っていませんでした。からかっている場面から、何十年も先の兄弟の争い、もっと先の子孫の争いを見たのです。そういう悲劇を避けたいと思うのは、神も同じでした。それで、二人には残酷だが、将来の悲劇よりはましなので、そうされたのでしょう。しかし、神は一方を取って他方を捨てられたのではありません。二人をご自分が引き受けるおつもりだったのです。「わたしはあの子を大いなる国民とする」と約束され、ずっとその子の成長を見守られたのです。

この問題は、アブラハムとサラの不信仰から始まって、八方塞がりになったものです。私たちも不信仰のゆえに八方塞がりになることがあります。私たちは一気に解決しようと考えますが、そんなうまい方法はありません。そんなとき、神がその不都合な現実をさばかず、かえって負ってくださることを経験します。神は負いきれない現実を引き受けてくださるのです。

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