2023年1月29日(日)
_____________________________________________________________________________
聖書一日一章 創世記 22章
_____________________________________________________________________________
神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。 (8節)
アブラハムにイサクが生まれ、何年か後のことです。突然、神が彼に、待ち望んで生まれた大事なイサクをいけにえとしてささげるようにというショッキングなことを命じられました。アブラハムはその命令に従い、イサクを連れ、神が指定された山に上り、イサクをほふろうとしました。そのとき、天から、「手を下してはならない」との声があり、アブラハムが見ると、雄羊が角を藪に引っ掛けていたので、それをいけにえとしてささげました。
さて、神がなぜそんなことを命じられたのか、それは1節に、「神がアブラハムを試練にあわせられた」とあるように、彼を試すための試練でした。その試練は、12節で、「あなたが神を恐れていることがよく分かった」と言われるように、神を恐れているかどうか、私は、神をほんとうに主と思っているか、一番大事にしているかということだと思いますが、それを試すものでした。一番大事にしているということは、そのためにどんな大事なものでも捨てられるということです。アブラハムはイサクを捨てたことで、それを証明したのです。私たちの人生にも試練があります。それは神が与えられるもので、私たちは、神を一番大事にしているかを試されるのです。
アブラハムは何によってその試練をクリアしたのでしょうか。「神を恐れていることがよく分かった」と言われるので、恐れでしょうか。それもあるでしょう。しかし、神は心の交わりを求められる方で、ただ恐れから行動しただけでは、喜ばれないでしょう。それなら、愛でしょうか。人はだれかを愛していると、その人を大事にしますし、愛が強ければ、ことさら大事にしますし、そのためにほかの大事なものを捨てることさえします。アブラハムは神を愛していましたし、私たちも神を愛しています。しかし、愛という点では、イサクへの愛はまさるとも劣らなかったでしょう。むしろ、その試練をクリアできたのは、「神ご自身が羊を備えてくださる」という言葉に表れているように、神が愛してくださっている、良いものをいくらでも与えてくださる、イサクを奪うようなことはなさらない、きっといけにえを備えてくださるという信仰によってでしょう。私たちも同じ信仰を持っているのです。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成
