2023年2月27日(月)
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聖書一日一章 出エジプト記 1章
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女の子はみな、生かしておかなければならない。(22節)
ヤコブの一家がエジプトに移住して長い年月が経ち、子孫が増え、民と言えるほどに増えました。しかし、当初のエジプトの王朝はヨセフの功績もあって好意的でしたが、王朝が変わると、イスラエルの民が隠然たる勢力を持っていることを警戒し、弾圧するようになりました。土木工事の過酷な労役を課し、人口を抑制するために、男の子を殺すように命じたのでした。
さて、王が男の子を殺すように命じたとき、「女の子なら、生かしておけ」と言いました。男の子も女の子もイスラエル人なのにどうしてでしょうか。それは、女の子はエジプト人に嫁がせて、エジプト人にしてしまえるからです。その背景に、家も民族も男の血筋によるもので、女は嫁いだ男の家や民族に帰属するという考え方がありました。こういう考え方は、現在の私たちから見ると、男尊女卑、男女差別甚だしいのですが、世界の数千年の歴史において、ずっとそうでした。どの時代のどの国の王も男子継承が基本でしたし、庶民の相続も基本的には男子相続でした。世界的に男女平等が重んじられるようになってから、まだ百年も経っていないのです。聖書も本質的なこと以外は時代に合わせて書かれていますので、系図はみな男の血筋で書かれています。
そんな中で、キリストがマリヤからお生まれになったということは衝撃的です。マタイの福音書1章の系図では、旧約の、ダビデの子孫として生まれるという預言の通りであることを示すために、ダビデの子孫のヨセフの子とされていますが、ヨセフの血は受けておられないのです。当時の考え方では、どこの馬の骨かわからないような人なのです。また、キリストに子どもがいたなら、その子孫、それも男の血筋の子孫は、キリスト教会で特別な地位にあったかもしれません。しかし、子どもはなく、キリストの子孫と言えるのは、キリストを信じ新しく生まれた人々、霊の子孫で、そこには男も女もありません。パウロはガラテヤ人への手紙3章28節で言います。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。キリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
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