2023年3月4日(土)

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聖書一日一章    出エジプト記 6章

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主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。(3節)

モーセはシナイ山のふもとで神の声を聞き、神からイスラエルの民をエジプトの圧制から救い出すために遣わされました。エジプトに帰り、王に面会し、礼拝のために荒野に行かせよという神の言葉を伝えましたが、王は怒り、かえって労役をきつくしたので、モーセは同胞からも恨まれ、苦境に立たされました。そんな中で、神は、民を救い出すことを再度約束し、王はかたくなに拒むが、ご自身の力に強いられて出て行かせると告げられました。

さて、神は3節で、「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった」と言われます。「主という名」の「主」はへブル語ヤハウェですが、この名は、3章でモーセが神にご自身の名を尋ねたときに、「『わたしはある』という者だ」と答えられた、その「わたしはある」、ヘブル語で「エフイェ」と関連した名です。アブラハムら父祖たちには、その名は知らせなかったと言われます。しかし、創世記12章8節には、アブラハムは「主の御名を呼び求めた」とあり、アブラハムも知っていました。それどころか、創世記4章26節には、それよりずっと前の時代に、「人々は主の名を呼ぶことを始めた」とあります。それなのに神はどうして知らせなかったと言われるのでしょうか。

「主」ヤハウェという名は、昔から知らせていたが、その名が表す深い意味は知らせていなかったということでしょう。深い意味とは、神が全能の神であるだけでなく、エジプトで苦しんでいる民に同情して、救い出す、憐れみの神、愛の神、救いの神だということです。神がそのような神であることは、うれしいことです。そのような神であることを一番よく現されたのは、神の御子キリストでしょう。キリストは、罪に捕らわれ、永遠の滅びに定められた私たちをかわいそうに思い、救ってくださいました。だから、新約聖書のクリスチャンたちは、旧約の人々が神を「主」と呼んだのと同じように、キリストのことを「主」と呼んでいるのでしょう。そして、私たちも「主」と呼ぶのでしょう。

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