2023年3月19日(日)

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聖書一日一章    出エジプト記 21章

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目には目を、歯には歯を。(24節)

イスラエルの民はシナイ山のふもとで宿営しましたが、神が山の上から呼ばれたので、モーセだけが山に登り、40日40夜そこにいて、十戒をはじめ多くの言葉を与えられました。ここには、神から与えられたイスラエルの社会での刑法と民法が記されています。

さて、24節には、有名な「目には目を、歯には歯を」という言葉があります。この言葉からは、やられたらやり返せというけんか腰の態度を感じますし、目をえぐるとか、歯を抜くとか、恐ろしいことを連想します。嫌な言葉です。しかし、本来の意味は、裁判で、犯罪者に罰を与える、あるいは償わせる上での原則です。害を受けた人は激怒し、相手を徹底的に叩きのめそうとすることが多く、殺人に至ることもありますが、むしろ、きちんと裁判をし、受けた害以上の罰を与えないようにし、復讐や倍返しを防止する戒めです。また、罰を与える上では、身分の高い人や同族には甘く、身分の低い人や異民族には厳しくなるものですが、偏見に左右されず、すべての人に平等に、同じ罪には同じ罰を与えるように命じる戒めです。また、文字通り取れば、失明させた者は、目をつぶされることになりますが、金銭で賠償してもよく、多くの場合そうしたものと思われます。日本でも、けんかで片目を失明させた場合、1千万円以上の重い賠償を課せられますが、同じです。

しかし、キリストはマタイの福音書5章38節で、「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」と言われました。キリストは、裁判で犯罪者に罰を与えたり償わせたりすることを否定されたのではないと思います。裁判は、本来、人が怒りによってさばくものではなく、普遍的な正義によってさばくもので、それは神のさばきに通じます。キリストが問題にしておられるのは、害を与えられた人の怒りや恨みや復讐心でしょう。そういう感情は、神が喜ばれないだけでなく、その人自身を苦しめるものです。ですから、癒されなければなりません。幸いにも、キリストへの信仰と聖霊の働きによって癒されるのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成