2023年3月25日(土)
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聖書一日一章 出エジプト記 27章
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次に幕屋の庭を作る。(9節)
モーセがシナイ山の山頂に40日40夜いたとき、神は民がご自身を正しく礼拝するために幕屋を作るように命じられましたが、その詳しい仕様です。
9節から19節は、幕屋の庭の仕様です。庭というのは、幕屋と祭壇を囲む長方形の聖なる領域で、祭司しか入れず、しかも入るときには服を脱ぎ、水を浴び、祭司用の服に着替えなければなりませんでした。その領域は汚されないように外界から厳しく隔絶されていましたが、隔てているものは、2mほどの高さの幕だけでした。ですから、入ろうと思えばいくらでも入れるので、その聖なる領域を守るものは、神の命令と神への恐れだったと言えます。
幕屋の聖なる領域の境界だけでなく、あらゆることで、神が定められた境界があります。神が、ここまではよいが、ここから先はだめだと定められた境界です。善と悪、正しいことと間違っていること、許されたことと禁じられたことの境界です。この境界はだれでも簡単に踏み越えられるものですし、人間には踏み越えようとする性質、つまり罪の性質があるので、どんどん踏み越えても、不思議ではありません。しかし、実際には、踏みとどまらせるものがありました。旧約時代のイスラエルの人々を踏みとどまらせたのは、律法と神への恐れでした。神を知らない異邦人については、パウロがローマ人への手紙2章14節で、神を知らず、律法も知らない異邦人も、良心という、生まれつき心に記された律法によって、咎めを感じ、何かを恐れ、その境界を踏み越えないでいると言います。
しかし、キリストによって、もっと良い方法で、神が定められた境界を守る道が開かれています。ヨハネはその手紙第一3章9節で、「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです」と言います。「神の種」とは聖霊のことです。キリストを信じて新しく生まれると、聖霊が心に住まれるので、神への愛が生じ、神のみ心に従いたいと思うようになるのです。恐怖に駆られてではなく、神への愛に押し出されて、境界内に踏みとどまるのです。
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