2023年4月10日(月)

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聖書一日一章    レビ記 3章

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その血を祭壇の側面に振りかける。(2節)

神へのささげ物の中でも、「交わりのいけにえ」についての規定です。以前の新改訳聖書では「和解のいけにえ」と訳されていましたし、共同訳聖書では「会食のいけにえ」と訳されています。どの訳もこれの意義をよく表しています。「全焼のささげ物」のように、動物の体全部を祭壇で焼くのでなく、ごく一部分を神にささげる意味で祭壇で焼き、一部分を祭司が食べ、大部分をささげた人と家族が食べます。これは、神と祭司とささげた人とその家族の「会食」あるいは「交わり」を表しています。普通、和解していないと交わりを持ちませんので、神との「交わり」は神との「和解」のしるしです。そのため、訳によって「交わり」、「和解」、「会食」などと変わるのです。

さて、ここから、神との交わり、人との交わりには、キリストの血が必要であることを思いました。このいけにえをささげるときに、動物をほふって血を流しますが、それは、人間が罪を犯して神を怒らせているので、交わっていただくためには、血によって罪を贖ってもらわなければならないという考えがあるからです。しかし、当時はだれも思いもつきませんでしたが、動物の血は、後に現れるキリストの血の象徴と預言に過ぎませんでした。ほんとうに罪を贖うことができるのは、神のひとり子がすべての人の身代わりに十字架で流された限りなく尊い血だけだからです。私たちは、神のことを思うごとに、祈るごとに、聖書を読むごとに、賛美するごとに、キリストの血によって罪を贖われてそれができていることを覚えましょう。

同時に、この「交わりのいけにえ」は、神の下での家族の交わり、回りの人々との交わりも表していますので、そこで流す動物の血は、人と人との交わりのためでもあります。つまり、人と人との交わりのためにもキリストの血が必要だということです。罪ある人間の互いの交わりは、必ずと言ってよいくらい、争いに至ります。仲良くありたいと思うのに、けんかばかりするようになるのです。そして、決裂するか、我慢とあきらめで冷たい関係になるかではないでしょうか。罪ある私たちの交わりには、罪の自覚、キリストの血による贖い、赦しの確信、そしてそれに基づく赦し合いが必要です。

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