2023年4月23日(日)

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聖書一日一章    レビ記 16章

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雄やぎ二匹を取る。(7節)

幕屋は、外側の幕で囲まれた部分も含めて聖なる場所ですが、中でも幕屋の奥の垂れ幕で区切られた至聖所は、神が臨在される特別に聖なる場所です。それだけに、そこでの無作法は神を冒涜し、神の怒りを招くことになり、10章で、アロンの二人の息子が、神から指示された祭壇のいけにえの残り火ではない異なる火で香を焚いて死んだように、死ぬことになりかねません。そこで、神は、勝手に至聖所に入らないように、1年に1度だけ、イスラエルの暦で7月10日に、大祭司が祭壇のいけにえの残り火で香を焚き、ほふったやぎの血を持って入るように命じられました。

さて、その日、雄やぎを2匹用意し、くじで、いけにえとして神にささげるものと、荒野に追いやるものとを選びます。いけにえにするほうは、ほふって、大祭司がその血を持って至聖所に入り、契約の箱のふたにかけます。荒野に追いやるほうは、大祭司がその頭に両手を置き、民のすべての罪を告白し、係りの者が草もない地に連れて行きます。

この2匹のやぎは、キリストの十字架の死の2つの意味を表していると思いました。いけにえにするほうは、キリストが、罪深い人間の身代わりに殺され、その血を人々の贖いの代価として神にささげられたということを指しています。キリストはその尊いいのち、尊い血を私たちを贖うための代価にされたのです。また、荒野に追いやるほうは、荒野に追いやるということが捨てることを意味しているので、キリストが人々から捨てられたことを指しています。キリストはイスラエルの指導者たちからも一般の民衆からも捨てられ、くずのように十字架につけられました。しかし、それは人から捨てられただけではなく、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたように、神からも捨てられたのでした。捨てられるべき罪深い私たちの代わりに捨てられたのです。感謝しましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成