2023年4月24日(月)

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聖書一日一章    レビ記 17章

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いのちとして宥めを行うのは血である。(11節)

牛や羊をほふるどんな場合も、幕屋に持って行っていけにえとしてささげなければならないという規定です。どんな場合もと言うと、肉を食べたくても食べれないではないかと思いますが、「交わりのいけにえ」というのがあって、一部は焼いて神にささげ、一部は祭司が取り、大部分は持って来た人自身が食べるものなので、肉は食べられるのです。この規定は密集して宿営していたときだけのことで、パレスチナ定住後は、物理的に不可能なので、申命記12章で廃止されます。わざわざ幕屋に持って来させる目的は、隠れて偶像にいけにえをささげることをさせないためと、この章の後半で、動物の血を飲むことを禁じていますが、それをさせないためでした。

さて、血を飲むことを禁じる理由として、11節で、「肉のいのちは血の中にある。いのちとして宥めを行うのは血である」と言われます。いのちが血の中にあるというのは、現実に即しています。人が死ぬ原因は、病気や老衰や事故などいろいろありますが、直接的な原因は心肺停止、つまり心臓か肺の呼吸が止まることです。心臓は血を全身に送る臓器、肺は血に酸素を供給する臓器ですから、心肺停止というのは結局、血を送れなくなることで、それで死ぬということは、血がなくなると死ぬということです。逆に言うと、血が巡っていれば、生きているということです。血といのちは深く結びついています。しかし、いのちの本質は血という生物的なものではなく、神の息という霊的なものです。血はそのいのちのしるしでしょう。そうすると、キリストが十字架で流された血も霊的ないのちのしるしで、キリストは私たちのためにそのような尊い霊的ないのちを捨ててくださったのです。

また、私たちは聖餐式において、ぶどうジュースを配るときに、「飲みなさい。これはわたしの血です。多くの人の罪のために流されるものです」と言います。そのぶどうジュースは、キリストの血を表し、キリストの血はキリストの霊的ないのちのしるしです。ということは、私たちはそこでキリストの霊的ないのちを飲んでいるのです。キリストの霊的ないのちを飲めば、私たちの新しいいのちが強められること間違いありません。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成