2023年5月13日(土)
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聖書一日一章 民数記 9章
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待っていなさい。(8節)
1節の「エジプトの地を出て二年目の第一の月」というのは、出エジプトの1年後のころですが、3節の「この月の14日の夕暮れ」は、ちょうど一年前に、人々が羊をほふり、血を門柱に塗り、エジプト人の初子がみな死に、せき立てられてエジプトを出た夕暮れです。神はちょうど一年後のこの夕暮れに、その出来事を、災いが過ぎ越したという意味で「過越」と呼んで記念し、羊をほふるように命じられました。15節の「幕屋が設営された日」は、その2週間前で、製作してきた幕屋が完成し、初めて設営したところ、超自然的な雲がおおい、その雲が上るのを待って出発しました。
さて、「過越」のときに、家族が死んで死体に触れた人々があり、レビ記の規定では死体に触れると汚れたことになるので、「過越」に参加できませんでした。しかし、彼らは、自分の過失ではないのに、「過越」に参加できないのはおかしいと、モーセに訴えました。それはそれまでにないケースだったので、モーセもどうしてよいかわからず、「待っていなさい。私は主がどう命じられるかを聞こう」と、神の指示を待ちました。すると、神が、1ヶ月遅れで「過越」を行うように指示されました。このときはすぐに答えられました。それに対し、旅立つか、留まるかどうかのみ心は、幕屋をおおう雲が上るかどうかで示されました。それについては22節に、「二日でも、一月でも、あるいは一年でも、とどまって去らなければ、旅立たなかった」とあります。すぐに与えられるとは限りませんでした。
神のみ心を伺う限り、与えられるまで待たなければなりません。何日も待たなければならないかもしれませんし、何ヶ月も待たなければならないかもしれません。いつまでにはっきりしないと都合が悪いということがあっても、与えられなければ、待たなければなりません。私たちが神のみ心を伺うときには、モーセのように答えられることはまずなく、あることに関して、日常的なみ言葉と祈りの生活の中で、これがみ心だという確信が与えられることが多いでしょう。その場合でも、その確信が与えられるまで待たなければなりません。自分の予定や都合にかかわらず、待たなければならないのです。
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