2023年5月15日(月)

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聖書一日一章    民数記 11章

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この主の手が短いというのか。(23節)

イスラエルの民がシナイ山のふもとを発ってしばらくしたときのことです。岩と砂しかない荒野で、人々は、神の奇跡によって毎朝降るマナ、蜜を入れたパンのような物を食べて生きていました。しかし、ある人々は肉が食べたいという激しい欲望にかられ、不平の声を上げました。モーセは人々のわがままに耐えきれず、神に、とても一人ではこの重荷を負えないと訴えました。神は、モーセ一人に与えていた神のみ心を伺う賜物を70人の長老に分け与えると、また、人々に1ヶ月間肉を飽きるほどに食べさせると宣言されました。すると、70人の長老が預言し、また、うずらの群れが飛来し、落ちたので、飽きるほど食べることができました。

さて、人々は激しい欲望にかられ、大声で泣いて言いました。「ああ、肉が食べたい。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも、だが今や全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」人々はマナに飽き、ごちそうが食べたくてしようがなく、食べられないので怒り、不平の声を上げたのです。たしかに毎日マナばかりでは飽きますし、ごちそうを食べたい気持ちはわかります。しかし、今は、命からがらエジプトを出、死の砂漠を旅していて、これから自分たちの定住地を命がけで戦って占領しなければならない非常時です。そんな非常時には、食糧があるだけでも有難いと言えます。それに、もうすぐ乳と蜜の流れる地に入れるのであり、そこに入れば、いくらでもごちそうを食べられます。それまで、神を信じて従っていれば、1年もかからずその地に住めたでしょうから、1年ほどの辛抱だったのです。それなのに、不平の声を上げたのは、まったくわがままで傲慢でした。このような性質はすべての人にあります。いや、彼ら以上にあります。人は衣食住そろっていても、何か不満を持っています。どんなに恵まれた人でも、何か不満を持っています。パウロはテモテへの手紙第一6章6節で、「満ち足りる心を伴う敬虔」を勧めます。敬虔とは、神との交わりのことですが、神との交わりには、満ち足りる心が伴うようになるというのです。私たちが不満を持つのは、神との交わりが薄いからです。神との交わりを深め、満ち足りる心を持ち、感謝の日々を送りましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成