2023年5月21日(日)

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聖書一日一章    民数記 17章

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わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。(5節)

イスラエルの民は、神への不従順のために荒野で40年間放浪することになりましたが、その放浪中のことです。一部のリーダーたちがモーセとアロンの指導者の立場を批判したので、モーセが、神がだれを選んでおられるかを明らかにするために、彼らに試しに祭司の儀式をしてみさせたところ、地面が彼らを飲み込み、火が焼き尽くしたので、彼らの間違いがはっきりしました。ここでは、さらに神の選びがはっきりする奇跡が起こります。12部族の族長から杖を1本ずつ、それぞれの名前を書かせて集め、聖なる幕屋の中に置いたところ、翌日、「アロンの杖が芽を出し、つぼみをつけ、花を咲かせて、アーモンドの実を結んでいた」のです。12部族の族長たちの杖の中で、アロンの杖だけが芽を出し、花と実をつけていたことで、神がアロンが属するレビ部族をご自身に仕える部族として選び、中でもアロンの家を祭司として選んでおられることが証明されました。

さて、神はここでは、レビ部族とアロンを選ばれましたが、聖書のどこを見ても、神が人を選ばれるのを見ます。アブラハムを選び、モーセを選び、幕屋の製作にベツァルエルを選び、ダビデを選び、預言者たちを選び、マリアを選び、使徒たちを選ばれました。この「選び」は新約聖書では「召し」と呼ばれます。キリストによって示されたことですが、神は非常に特別な人だけを選ばれるのではなく、キリストを信じるすべての人をあらゆる務めのために選ばれる、あるいは召されます。神に直接仕える務めもあれば、普通の仕事を通して神に仕える務めもあり、国を動かすような務めもあれば、家族に仕える務めもあります。民数記の時代には、選びは、民族、部族、家柄などの生まれと結びついていましたが、その制約はキリストによって取り払われました。クリスチャンは、民族、家柄、男女に関係なく召されるのです。

神が一人一人をいろいろな務めに召されると言うと、人が憧れるような務めもあれば、蔑むような務めもあり、不公平に聞こえます。この世的には、たしかにそうです。しかし、神はまず、ご自身の子どもとして召されるのです。その光栄があまりにも大きいので、務めの違いなど気にならないのです。

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