2023年5月22日(月)

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聖書一日一章    民数記 18章

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わたしがあなたへの割り当てである。(20節)

イスラエルの民が荒野で40年間放浪していたときのことですが、レビ部族だけが幕屋で奉仕でき、中でもアロンの家族だけが祭司になれることに批判があり、神がその批判に奇跡をもって答えられたので、神の彼らに対する召しがはっきりしました。そのように、彼らは神に仕える光栄な務めに召されていましたが、ほかの部族とは違って土地を割り当てられないことなっていたので、収穫から糧を得ることはできません。そこでここでは、神が彼らの報酬を定めておられます。祭司には、罪の赦しなどのためにささげられる牛や羊や小麦の一部が、祭司以外のレビ部族の人々には、ほかの部族の人々が神にささげる収穫の十分の一が与えられることになっています。

この報酬について、神は20節で言われます。「イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。」レビ部族の人々は、ほかの部族の人々が神にささげる収穫の十分の一を報酬としてもらって生活するので、いわば神へのささげ物が割り当て地の代わりでした。しかし、「わたしへのささげ物」が「あなたへの割り当て地」だとは言われず、「わたし」が「あなたへの割り当て地」だと言われます。このことは、生活のための報酬はたしかにそうだけど、本当の報酬は、「わたし」つまり神ご自身だと言われるのです。その意味は、神に仕え、神に触れること自体が、特権であり、喜びであり、誇りだということです。

私は昔、クリスチャンの奉仕を義務だと思っていました。信仰によって義と認められるということを知っていたので、救われるためにしなければならないとは思いませんでしたが、救われた限りはしなければならないことと思っていました。そのため、人に奉仕を押しつけたり、奉仕をしない人を心の中で非難したりしました。しかし、だんだんと奉仕の喜びを経験し、義務ではなく、むしろ、神からのプレゼントだと思うようになりました。やることが多すぎて疲れるときには、なぜここまでしなければならないのかと思うこともありますが、それは自分の意地で奉仕をかかえ込んでいるようなまずいことがあるからで、奉仕自体はほんとうは楽しいものです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成