2023年5月24日(水)

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聖書一日一章    民数記 20章

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わたしが聖であることを現さなかった。(12節)

イスラエルの民が荒野で40年間放浪していた時のことです。モーセの姉でともに民を指導してきたミリアムが死にました。また、モーセの兄で大祭司に任命されたアロンも、神から死ぬ時が来たことを告げられ、民の見ている前で、ホルという山に登り、死にました。

さて、泉が見つからず、備えの水がなくなり、追い詰められた人々は、不満や怒りをモーセにぶつけました。すると、神が杖で岩を打つように命じられ、モーセがそうすると、水が豊かに湧き出たので、人も家畜も水を飲むことができました。出エジプト記17章のときと同じですが、今回は神が言われます。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。」モーセがどんなふうに神を信頼しなかったのか、どんなふうに聖であることを現さなかったのか、よくわかりませんが、人々の不信仰に怒り、冷静さを失ったことはうかがえます。「われわれが‥‥水を出さなければならないのか」と、うっかり「自分が」という意識が出ていますし、岩を2度打ったのもそのせいでしょう。

人々が不満や怒りをぶつけたことはこれまでも何度もありましたが、モーセまでそれに誘発されて、不信仰な行動をしてしまったのは、これが初めてです。その原因は、荒野の同じような場所に40年間もいるという、気の滅入る状況で、人々の心が閉塞感と陰うつでいっぱいだったことでしょう。現在の日本も、明るい展望が持てず、人々の心が閉塞感と陰うつでいっぱいです。

このようなときにこそ、キリストの光が必要です。キリストは、ヨハネ福音書6章12節で、「わたしは世の光です」と言われ、また、ヨハネ福音書11章9節で、「だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです」と言われました。この世がどんなに暗くても、キリストは明るく輝く光です。キリストの光を見ていると、心が明るくなります。クリスチャンでも、この世の雰囲気に影響されて、心が暗くなっている人がいます。キリストの光を見ましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成