2023年5月28日(日)

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聖書一日一章    民数記 24章

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イスラエルを祝福することが主の目にかなうのを見た。(1節)

イスラエルの民は、ヨルダン川の東側の2つの国を滅ぼし、そこに宿営していました。すると、すぐ南のモアブという国の王バラクが脅威を感じ、何とかしようとしました。戦っても勝ち目がないので、呪いによって滅ぼそうとし、高名な預言者バラムを招きました。しかし、バラムが神に求めて与えられた言葉は、呪いの言葉ではなく、祝福の言葉でした。

さて、1節には、「バラムはイスラエルを祝福することが主の目にかなうのを見て、これまでのようにまじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けた」とあります。バラムはぼんやりとは創造主なる神を知っていたようですが、知っているだけでした。自分の神、自分の主として崇めることをせず、喜んでもらえることをしようとせず、より頼んで祈ることもしなかったようです。それでも、生まれながらに預言の賜物を持っていて、神の言葉を仲介することはできたのでしょう。そんないい加減な預言者でしたが、今回、イスラエルを呪ってくれと依頼されて、神に言葉を求めると、祝福する言葉が与えられたので、そこは正直で、その通りに語ったところ、依頼主のバラクはかんかんに怒ったものの、神の祝福を体で感じたのでしょう。それで、初めて、祝福されることと、祝福される道を知ったのです。それで、依頼主のことはどうでもよくなって、神にもっと祝福されたいと思って、自分からイスラエルを祝福する言葉を語ったのです。そのまま、その道を進んでいれば、真の預言者になり、聖書にバラム書などが加えられていたかもしれません。残念ながら、彼の信仰的覚醒はこのときだけに終わりました。

私は中学生のときに、キリストを救い主と信じましたが、そのときには、どうすれば神に祝福されるのか、どんな祝福の道があるのか、まったく見当がつきませんでした。多くのクリスチャンの話を聞いても、みな違うし、多くの本を読んでも、みな考えが違うし、暗中模索が続きました。しかし、だんだんと、自分の行動で、神に祝福されるものと祝福されないものがあることを体験的に知り、祝福されることをしてみると祝福されるので、どんどんその方向に進むようになりました。それは聖霊の導きでしょう。感謝です。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成