2023年5月29日(月)

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聖書一日一章    民数記 25章

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バアル・ペオルとくびきをともにした。(3節)

イスラエルの民は、ヨルダン川の東側の2つの国を滅ぼし、そこに宿営していました。すると、すぐ南のモアブという国の王バラクが脅威を感じ、高名な預言者バラムを招いて、呪いによって滅ぼそうとしましたが、神がともにおられたので、かえって祝福されただけでした。しかし、再び問題が起こりました。モアブの娘たちがイスラエルの男たちを自分たちの神々へのいけにえの食事に招いたので、男たちはその誘いに乗り、食事中にモアブの神々にいけにえをささげる儀式に参加してしまいました。そのため、神罰で、おそらく疫病で、2万4千人が死にました。これは、イスラエルの男たちのうかつな失敗ではなく、18節に「巧妙に仕組んだ企み」とあるように、モアブの王がミディアン人の長老たちと相談して企んだ巧妙な色仕掛けでした。

さて、イスラエル人の男たちがモアブの神々へのいけにえの食事に参加したことを、3節は、一番新しい新改訳では、「こうしてイスラエルはバアル・ペオルとくびきをともにした」と言います。「くびきをともにする」とは、牛に鋤を引かせるのに、2頭の牛に木を渡して引かせることが多かったことから出た表現で、鋤をともに引く、あるいは重荷をともに負うという意味です。モアブの神のいけにえの食事に参加したことが、どうしてその神とくびきをともにしたことになるのでしょうか。おそらく、モアブの神へのいけにえの食事に参加することは、モアブの神といっしょに食事をすることで、当時、食事は非常に親しい人としかしなかったので、それはモアブの神と兄弟関係になることで、くびきをともにすることだったのです。

モアブの神とはくびきをともにしたくありませんが、すばらしい方、神のみ子キリストが、私たちを、くびきをともにしようと招いてくださっています。マタイの福音書11章28節で言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負いなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすいからです。」神のみ子とくびきをともにさせていただけるとは、何という幸いでしょうか。

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