2023年6月4日(日)

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聖書一日一章    民数記 31章

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一人も欠けていません。(49節)

イスラエルの民はヨルダン川の東側に宿営していましたが、近くのモアブの王が脅威を感じ、預言者バラムを呼んで呪わせました。また、モアブの娘たちにイスラエルの男たちを偶像の宴に誘わせ、彼らの宗教的純粋さを失わせ、イスラエルの霊的一致を壊そうとしました。それらの箇所でほのめかされていましたが、この2つの事件はどちらもミディアンの長老たちの画策でした。イスラエルの民を憎むディアン人がモアブの王を使ってイスラエルの民を滅ぼそうとしたのです。

そこで、ここでは、ミディアン人に戦いをしかけ、滅ぼし、彼らといっしょにいたバラムも殺したと記しています。イスラエルの民はこれから、妻子を残してヨルダン川を渡り、戦争をしようとしているのに、イスラエルを憎み敵対する民を、背後に置いておくことはできなかったのです。

さて、48節では、イスラエルの指揮官たちがモーセに言いました。「しもべどもは、部下の戦士たちの総数を数えました。一人も欠けていません。」戦った兵士が一人も死ななかったというのは奇跡でした。指揮官たちはそのことを神に感謝して、金や銀をささげました。彼らは部下を愛していて、死ななかったことが無上にうれしかったからです。普通の戦いでは、兵士は自軍が戦いに勝つために戦い、勝つためには死ぬことも仕方がないと考えます。兵士は勝利のためにあり、いわば勝利のための手段です。しかし、神の戦いでは、神にとって兵士は手段ではありません。大切な一人一人です。

神の戦いは、当時のイスラエルにおいては、実際に武具をもって戦い、パレスチナを攻め取ることでした。しかし、私たちにとっては、神に反抗している人々を神に立ち返らせ、神に従順な民にするという霊的な戦いです。キリストがその指揮官です。その戦いにおいて神は私たちをけっして手段とはみなされません。たしかに、私たちは神の手足となって働くこともあるでしょう。それでも、神の手足ということは、神にとってかけがえのないご自身の一部だということです。

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