2023年6月5日(月)
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聖書一日一章 民数記 32章
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この地は主の前であなたがたの所有地となる。(22節)
イスラエルの民はヨルダン川の東側に宿営していて、パレスチナを征服する戦いの準備をしていました。そのころ、ルベン部族とガド部族の代表者たちがモーセと族長たちに、ヨルダン川の東側の現在占領している地を自分たちに与えてくれるように願い出ました。彼らは家畜をたくさん持っていて、その地は草が多く、牧畜に適していたからです。モーセはそれを聞いて憤慨し、彼らを責めました。みんなで力を合わせて戦わなければならないときに、自分たちだけ土地をもらって安穏と暮らそうとするのか、どれだけほかの部族の意気をくじくことか、40年前、パレスチナに攻め込もうとしていたときに、一部の者が人々の意気をくじき、荒野でさまようことになったのを忘れたのかと。しかし、それは誤解でした。彼らは戦いに行かないというのではなく、いっしょに行き、ほかの部族がみな所有地を持つまで戦うし、自分たちはパレスチナには所有地をもらわないという意図でした。それを聞いて、モーセは彼らにこの地を与える約束をしました。
しかし、私はモーセの判断は間違っていたと思います。神がイスラエルの民に約束された地は、地中海からヨルダン川までで、ヨルダン川の東側は含まれていませんでした。それに、2つの部族だけ特別扱いをすることは、12部族の平等や一体を崩すことになりかねません。やはり、神の約束の地こそ、イスラエルの民が所有すべき地で、どの部族もそこに所有地を持つという原則を貫き、2部族の願いを断り、ヨルダン川の東側の地は、共同の放牧地ぐらいにすれば良かったと思います。
しかし、このときそう判断をするのはきわめて難しかったでしょう。というのは、2部族の提案は、戦いに支障がないし、他の部族の所有地が増えるし、双方にとって都合が良かったからです。関係するすべての人に都合が良いと、神のみ心に適っているかどうかを検証することなく、受け入れてしまいがちです。関係するすべての人に都合が良くても、聖書のみ言葉に反していることもあるのです。すべてが都合良く進むとき、ちょっと立ち止まってみ言葉に適っているかを考えてみることも必要だと思います。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成