2023年7月2日(日)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章    申命記 23章

_____________________________________________________________________________

主があなたのすべての手のわざを祝福されるためである。(20節)

モーセはここでは、きよさを保ち、憐み深くあるように教えています。憐れみについては、15節で、「主人のもとから逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない」と言い、虐待されて逃げ出した奴隷に対する優しい配慮を命じています。24節では、他人の畑に入って、作物を好きなだけ食べてよい、鎌で刈ったりかごに入れて持ち帰ってはいけないが、手で摘んでその場で食べるのなら、好きなだけ食べてよい言います。これなら、だれも飢えません。このような憐れみの教えはすーっと受け入れられます。

しかし、きよさについては、肉体的欠陥のある人、不倫の子、ある民族の子孫は「主の集会に加わってはならない」というのは、受け入れられません。その人が神を侮っているのならばともかく、自分の責任ではなく、またどうにもならないことによって、神の集会に加わりたいと思っても加われないというのは、差別的ですし、不条理です。私はこれはモーセの考えであって、主のみ心ではないと確信します。というのは、キリストの教えとは違うからです。キリストは、不倫を繰り返していたサマリアの女をご自身を信じるように導き、信じて救われたことを喜ばれました。また、弟子たちに「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われ、すべての民族の人を弟子として受け入れることを表明されました。また、1節の「陰茎を切り取られた者」も、新約聖書で最初に救われた異邦人は、使徒の働き8章の、エチオピアの女王に仕える宦官で、そういう人でした。また、キリストご自身、「十代目の子孫さえ、決して主の集会に加わることはできない」と言われたモアブ人だったルツの子孫ですし、不倫をしたダビデとバテシェバの子孫です。モーセはキリストを知らなかったので、そういうことが聖なる神と相容れないし、救いを妨げると思ったのでしょうが、キリストの汚れをきよめる力、罪深い人を救う力は、次元が違うほど強かったのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成