2023年7月6日(木)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章    申命記 27章

_____________________________________________________________________________

自然のままの石で、主の祭壇を築かなかければならない。(6節)

モーセがした最後の説教の3つ目のものです。ここでは、近いうちにパレスチナを征服するためにヨルダン川を渡るときに、大きな石を立て、神の戒めを書き記すように、また、ある程度征服したときに、その地の中央部のエバル山に石を立て、神の戒めを書き記し、同時にそこに祭壇を築くように命じます。また、その山と向かいのゲリジム山で、壮大なパフォーマンスをするように命じます。6つの部族の人々はゲリジム山の頂に立ち、他の6つの部族の人々はエバル山の頂に立ち、祭司たちがたとえば「父や母を敬う者は」と言うと、ゲリジム山の人々が「祝福される」と叫び、「父や母を軽んじる者は」と言うと、エバル山の人々が「のろわれる」と叫ぶという具合です。

さて、エバル山の祭壇について、6節で、「自然のままの石で、祭壇を築かなければならない」と言います。「自然のまま」ということは、鉄のノミで削らないということです。削ると、無意識にせよ、意識的にせよ、何らかの形を彫り、偶像にしてしまう危険があるからです。「自然のままの石」は神が自然界に埋め込まれた様々な力によって、また神が起こされる多くの偶然によって造られました。当時の礼拝の場である祭壇には神が造られた自然の石が一番ふさわしかったのです。この伝統は私たちプロテスタントの礼拝に流れています。カトリックや正教の礼拝堂にはキリストやマリアや聖人の像が置かれていたり描かれていたりするのに対し、プロテスタントの礼拝堂は、ただの白壁か木壁の部屋があるだけです。私たちも、礼拝は、神のものだけ、神の言葉と聖霊の働きだけによって持たれるべきだと考えているのです。

それは礼拝だけではありません。私たちは自分の夢を持ち、何とかその通りになるように躍起になっていました。夢を持つのは良いことですが、自分ではないものになろうとしたり、この世の流れに乗せられていたのではないかと思います。しかし、信仰の成長とともに、神が自分をどのように造られたのか、自分にどのようなご計画を持っておられるのか、どのような賜物を与えておられるのか、どんな務めに召しておられるのかを考えるようになりました。神が造られた自然の石でありたいと思うようになったのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成