2023年7月17日(月)
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聖書一日一章 ヨシュア記 4章
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主はヨシュアを大いなる者とされた。(14節)
モーセの後を継いだヨシュアは、ヨルダン川を渡り、パレスチナに攻め入ろうとしていましたが、川は自然の城壁で、敵の目の前で渡ることはほとんど不可能でした。ヨシュアは、契約の箱を祭司たちにかつがせて先頭を行かせ、みんながついて行くと、祭司たちの足が水に浸ったとき、川の流れが途絶え、水が涸れ、歩いて渡ることができました。みなが渡り終えたとき、各部族の代表者が川底から一つずつ石を取り、それを川を渡った所に積みました。それは、神が川を涸らされたことを記念し、子孫に伝えるためのものでした。
さて、14節には、「その日、主は全イスラエルの目の前で、ヨシュアを大いなる者とされた。それで彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間、恐れた」とあります。ヨシュアはモーセの後継者として明らかに力不足でした。モーセはもともとエジプトの王宮で育って高い身分であり、一人で解放運動を始めたような人であり、神に出会ってからは、数々の奇跡を起こしてイスラエルの民をエジプトから連れ出し、海を分け、天からパンを降らせ、民の行動基準と礼拝の仕方を教え、民を導いてきた人です。実に巨人でした。それに比べ、ヨシュアは普通の人で、信仰深く忠実だとは言え、とてもとてもモーセに匹敵する器ではありません。彼自身も自分の足りなさを自覚し、とてもこの民を導けないと恐れていたでしょう。しかし、ヨシュアが指揮したときに、神が川の水を突然涸らすという奇跡を行われ、人々の目にヨシュアを大いなる者とされたので、人々は彼に従うようになりました。
ここで、人を大いなる者とするのは、その人の資質ではなく、神だということを教えられます。もっとも私たちはヨシュアと違って大いなる者となる必要はありません。それでも、私たちは、仕事であれ、家庭の務めであれ、社会の務めであれ、教会の務めであれ、何かの務めに召されています。そして、始めたばかりのときは、うまくできない気がするものです。とくに前任者がすぐれている場合には、余計にそう感じるでしょう。コンプレックスを持つことも多いでしょう。しかし、人をその務めにふさわしくするのは神です。神がその務めに召された限り、必ずそうされるに違いありません。
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