2023年7月29日(土)

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聖書一日一章    ヨシュア記 16章

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その終わりは海である。(3節)

ヨシュアは晩年、神の命によって、パレスチナ全土を各部族に割り当てる作業をしました。ここでは、エフライム族の南の境界線と北のマナセ族との境界線を示しています。「ヨセフ族」とありますが、エフライム族とマナセ族を合わせて言った呼称で、2つの部族はヨセフの二人の子がおじいさんのヤコブの養子になってできた部族だからです。

さて、3節ではエフライム族の南の境界線について、「その終わりは海である」と言います。境界線の終わりが海なのは、海には境界線が引けないからです。そもそも境界線というのは、ここまではおれのもの、ここからがおまえのものと、あるいは、ここまではおれたちのもの、ここからはおまえたちのものという具合に、自分や自分たちの所有権や支配権を主張するためのものです。海に境界線が引けないということは、海に出ると、所有権や支配権が消えてしまうということです。これはすばらしいことです。だれのものだとか、取った、取られたとか、得した、損したとか、けちくさいことが消えてしまうのです。

そういう点、海は、神ご自身に似ています。神にあっては、だれのものだとか、得したとか損したとかのけちくさいことが一切ありません。神は際限なく受け入れ、際限なく与えられます。神の下では境界線などありません。エデンの園に境界線はなかったし、天国にも境界線がありません。パウロはコリント人への手紙第一13章で、神の愛について言います。「愛は寛容であり、愛は親切です。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」神は私たちの日々犯す罪をその限りない愛で受けとめ、キリストが同じ愛をもってその罪を全部引き受け、身代わりに罰を受けてくださいました。キリストが少しでも、得とか損とか考えられたら、そんなことはなさらなかったでしょう。神にもキリストにも、境界線はありません。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成