2023年9月25日(月)
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聖書一日一章 サムエル記第一 25章
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あなたのうちには一生の間、悪が見出されてはなりません。(28節)
ダビデは、サウル王に追われ、洞穴などに隠れ、転々としながら、6百人ほどの部下とともに、逃亡生活をしていました。ある荒野にいたとき、近くにナバルという牧羊業者がいたので、彼の羊飼いたちを略奪から守ってやっていました。しばらくして、ナバルが羊の毛を刈っていると聞き、それは牧羊業者にとって収益の時なので、部下たちを行かせ、心付けをお願いしたところ、ナバルはののしり、追い返しました。それを知って、ダビデは怒り、もう少しでナバルを襲撃するところでしたが、彼の妻アビガイルが賢明で、このままでは大変なことになると気づき、急いで多くの食糧をロバに積んで出かけました。途中でダビデに出会い、ひれ伏して夫の無礼をわび、王になるべき方が愚かなことをしないように説得しました。ダビデは自分の軽率さ悔い、止めてくれたことに感謝し、ナバルの死後、彼女を妻に迎えました。
さて、28節でアビガイルは言いました。「ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから、あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。」ダビデがサウルに追われていたのは、王位を脅かす者と見られたからですが、ダビデはたしかに王になろうとしていました。しかし、それはダビデの野望ではなく、神がダビデを選び、彼によって国を治めようと考えておられ、そのみ心のためでした。ですから、ダビデの戦いではなく、神の戦いです。神の戦いは神が戦われるので、必ず勝ちますが、用いられる人は、神に忠実で、「一生の間、悪が見出されては」ならないというのです。神のみ名に泥を塗ることになるからです。とても厳しく聞こえますが、罪を犯してはならないということではないと思います。ダビデは、神の戦いのための手勢を自分の怒りの発散のために使おうとしていましたが、そんな神の戦いを自分のために利用するようなことはしてはいけないということでしょう。
ところで、神の戦いを戦い、文字通り「一生の間、悪が見出され」なかった方がおられます。言うまでもなくキリストです。キリストは、多くの人を救い神の国を建て上げる神の戦いをいのちをかけて戦われました。私たちの永遠の救いはその戦いによって勝ち取られたものであることを覚えましょう。
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