2023年9月27日(水)
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聖書一日一章 サムエル記第一 27章
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いつも、このようなやり方をした。(11節)
ダビデは、サウル王に追われ、洞穴などに隠れ、転々としながら、逃げていましたが、逃亡に疲れてきたころのことです。ダビデは、1節にあるように、「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない」と考えました。そこで6百人の手勢を連れてペリシテ人の一つの町ガテの王アキシュの所へ行き、領内に住ませてくれるように頼み、小さな町を与えられ、そこに1年4か月住むことになります。
さて、ダビデの、ペリシテの地に住むことにした判断は、理にかなっているように見えます。どこに隠れても通報され襲われる、隠れる場所が少なくなってきた、これまではうまく逃れたが、そのうち捕まるだろう、ペリシテの地ならサウルも手出しができない、ペリシテ人の役に立てば、置いてくれるだろう、という考えです。実際、サウルも追うのをあきらめましたし、ペリシテの領主も置いてくれ、予想通りになりました。しかし、それはこの世の賢い人の考えです。そこには信仰が抜け落ちています。モーセの時代に、パレスチナを偵察した者が、「あの民は私たちより強いから、あの民のところには攻め上れない」と考えたのと同じです。ヨシュアやカレブのように、「もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れてくださる。主がともにおられるなら、必ず勝つことができる」とは考えなかったのです。この判断はうまくいくように見えましたが、敵にかくまってもらうというのはどうしても無理があります。信用してもらうために、アマルク人を襲って、分捕り物を献上し、イスラエルの村を襲ったと偽って、イスラエルの敵になったと見せかけていました。この世の賢い人の考えは一見うまくいくように見えますが、必ず矛盾が生じ、表と裏を使い分けなければならなくなります。
ダビデは、神が自分を王に選ばれたのなら、しかも、神を信頼してできる限り従っているなら、神は自分のことを喜んでおられるはずだし、必ず生かしてくださると考えるべきでした。私たちも、キリストを信じていて、罪に気づくごとに告白して赦しを確認しているなら、神に喜ばれています。ですから、神は私たちを必ず助けてくださいます。
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