2023年10月1日(日)
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聖書一日一章 サムエル記第一 31章
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サウルと三人の息子はみな、ともに死んだ。(5節)
ダビデがペリシテにのがれていた時期に、ペリシテ人はイスラエルに戦いを仕かけました。その戦いが始まると、イスラエル軍は敗れ、敗走し、サウル王は集中攻撃を受けて重傷を負い、もはやこれまでと、道具持ちに自分を刺せと命じましたが、躊躇していたので、自分で剣の上に倒れて自害しました。
さて、サウルは立派に最期を遂げたと言えます。戦いを部下に任せて、遠くから指揮することもできましたが、前線で戦いました。重症を負えば、何とか命だけは助かりたいと思うものですが、死を避ける様子はありません。無割礼の者に殺されてたまるかという誇りを持ち、迷わず自害しました。ダビデは次の章でサウルを勇士とたたえていますが、まさにその通りです。
しかし、サウルの思いの中に、神のことは少しもありません。神を信じている人であれば、「もう最期だ」と思ったときには、神に魂をゆだねる上で、不信仰を反省したり、大きな過ちを悔いたり、赦してもらえるのだろうかと思ったり、神の憐れみを請い求めたりしそうなものです。それなのに、そんな気配は少しもありません。無割礼のペリシテ人に刺し殺され、なぶりものにされることを、ひどく恐れていますが、それは、割礼がイスラエル人の誇りで、無割礼の者に粗末に扱われることは恥だったからです。このように、サウルの思いは、誇りとか恥とか、人からどう思われるかということでした。
一方、彼の息子ヨナタンも戦死しました。ヨナタンのそのときの思いは、死の様子が少しも書かれていないので、知ることが困難ですが、この書の20章14節で彼がダビデに言った言葉から、推測できます。たぶん次のようでしょう。父は神によって王位から退けられていたのに、王位にしがみつき、神に選ばれたダビデを殺そうとした。そんな自分たちがここで死ぬことは、神のみ心であり、当然の報いだ。これで、神に選ばれたダビデが王になって、み心がなる。主よ、自分たち家族の罪を赦し、深い憐れみを注いでください。私の魂をみ手にゆだねます。そんなところでしょう。ヨナタンの思いは神に向いていました。私たちも最期は主を仰ぎながら死にたいですね。
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