2023年10月2日(月)

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聖書一日一章    サムエル記第二 1章

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サウルのために泣け。(24節)

ダビデがペリシテの地に逃れている間に、ペリシテ人がイスラエルに戦いを仕かけ、イスラエルは大敗し、サウル王もその子ヨナタンも戦死しました。その2日後、ペリシテの地にいるダビデの所に、アマレク人の男がやって来て、サウルとヨナタンの戦死を知らせました。ダビデは二人の死を悲しみ、その男が、致命傷を負ったサウルが「殺してくれ」と頼んだので殺したと言ったので、「主に油注がれた方に手を下すことを恐れなかったのか」と言って、処刑しました。その男は、ダビデがサウルを憎んでいて、サウルを殺したと言えば、ほうびをはずんでくれると思って、そんな作り話をしたのですが、見当はずれでした。ダビデは、殺すチャンスが2度もあったのに殺さなかったように、損得や愛憎の感情で動く人ではなく、すべてを神のみ心によることと考え、サウルの弾圧も神が与えられた試練と受け止めていたのです。

さて、ダビデはその日、サウルとヨナタンのために、19節以下の哀歌を作って歌いました。そこでは、二人の死を悲しみ、二人を勇士としてたたえ、「愛される立派な人だった」とほめています。ヨナタンに対しては、その信仰や勇気に対する尊敬しか、あるいは友情や好意に対する感謝しかなかったでしょうから、心から悲しみ、心からほめていると思いますが、サウルに対してはどうでしょうか。私は、自分を苦しめたサウルに対しては、本心を押さえて、無理してたたえているのではないかと疑っていました。

しかし、私は今回この哀歌を読んで、言葉に少しも曇りがないことを感じました。ですから、私は心からそう言っていると思います。ダビデがそういう気持ちになれたのは、信仰によって聖霊が働き、人間的な気持ちを一掃したからでしょう。それと同時に、死という事実が、それまでのすべてのことを過去のことにし、恨みも憎しみも洗い流し、信仰に沿った気持ちを持つことを助けたのではないでしょうか。私たちも、生きているときにはいろいろトラブルがあった人でも、なくなったときには、嫌なことをすべて忘れ去り、ただ感謝だけをして、主のみ手にゆだねることができればと思います。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成