2023年10月25日(水)
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聖書一日一章 サムエル記第二 24章
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この羊の群れがいったい何をしたでしょうか。(17節)
ダビデ王はあるとき急に人口調査を思い立ち、家来たちの反対を押し切って、調査を断行しました。しかし、後で不適切な動機でしたことを反省し、神に罪を告白しました。すると、預言者を通して、罰として、7年間のききんか、3ヶ月間の内乱か、3日間の疫病か、どれかを選べと言われ、疫病を選ぶと、すぐに疫病が発生し、7万人が死にました。そのさ中、ダビデは、エルサレムを滅ぼそうとしている天使を見、神に祈ると、その天使の立っている麦打ち場に祭壇を築くように言われ、その通りにすると、疫病が終息しました。
さて、疑問を感じないでしょうか。ダビデが罪を犯したのに、多くの民が疫病で死ぬのはおかしいという疑問です。そのことは、ダビデ自身も、17節で、「私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたでしょうか」と言っています。しかし、1節をよく見ると、必ずしもダビデだけの罪ではないようです。「主の怒りがイスラエルに対して燃え上がり、ダビデをそそのかして、彼らに向かわせた。」最初に、民が全体的に罪を犯し、神が怒られたというか、このままではだめだと思われ、ダビデに国民の人口に関心を持たせられ、ダビデが不適切な動機で調査を行ったということです。だとすれば、民も無垢な羊の群れではありません。
この場合は、民にも問題がありましたが、たとえ民に問題がなくても、権力者が過ちをおかした場合に、その害を被るのはいつも民です。たとえば、権力者が愚かな戦争を始めた場合に、戦争に巻き込まれ、苦しみ死ぬのは、いつの時代でも、民です。この罪の世の悲しい現実です。
それを考えると、私たちの王の場合は真逆です。私たちの王は、まったく罪も過ちもなく、神のためにも民のためにも良いことばかりされました。それなのに、私たちの王は、極悪人のように十字架につけられ、神の怒りを受け、苦しみ死なれました。この私に罪があるのです。私が悪いことをしたのです。子羊のような王がいったい何をされたのでしょうか。罪のない王が罪深い私たちの身代わりになられたことを覚えましょう。
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