2023年10月26日(木)

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聖書一日一章    列王記第一 1章

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このことは王から出たことなのですか。(27節)

ダビデ王の死期が迫ったとき、年長の息子アドニヤは、王になろうと思い、将軍ヨアブや祭司エブヤタルの支持を得た上で、王族を招いて宴会を開きました。その場で王位継承を決めてもらうつもりだったのでしょう。しかし、預言者ナタンはダビデがソロモンを後継ぎに決めていることを知っていたので、すばやく行動しました。ソロモンの母バテ・シェバにダビデの意志を確認させたところ、ぼーっとしていたダビデは事態をすばやく把握し、ソロモンが後継ぎだと明言し、すぐに即位式をやらせました。それを知ったアドニヤの客たちは退散し、アドニヤはソロモンに命乞いをしました。

さて、6節には、「アドニヤは、『私が王になる』と言って野心を抱き、戦車、騎兵、歩兵五十人を手に入れた」とあります。アドニヤの間違いは、自分で王になろうと思ったことと、そのために武力を使おうとしたことです。王というのは、自分でなろうと思ってなるものではなく、また武力でなるものでもありません。王には絶大な権力と富があるので、なりたい人が多く、みんなが武力でなろうとすると、泥沼の争いになってしまいます。王は神に召されてなるものです。サウルもダビデも、神に選ばれ、預言者の油注ぎを受け、民に受け入れられて王になりました。ダビデ以降は、神からダビデに彼の子孫が王になると言われたので、王が指名した息子が継ぐように変わりました。いずれにせよ、自分でなろうと思ってなるものではありません。私たちにはまったく関係のない話ですが、クリスチャンが何かの職に就くときも、同じことが言えると思います。自分でなろうと思ってなるものではなく、また、なれるものでもなく、神に召されてなるもので、召されているなら、遅かれ早かれ、頼まれたり、任命されたり、推挙されたりすることでしょう。

私たちの王であるキリストは、神の子なのですから、だれよりも王にふさわしい方ですが、自分から王になろうとはされませんでした。それどころか、ヨハネの福音書6章15節によると、人々が王に推挙しようとしても動かれませんでした。しかし、人類の救いを成し遂げられた後、神が天に引き上げ、ご自身の右の王座に就けられたのです。

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