2023年10月28日(土)
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聖書一日一章 列王記第一 3章
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神の知恵がうちにあった。(28節)
ソロモンは王になって間もなく、ギブオンという町へ行って、神にいけにえをささげました。その夜、夢で、神から、「何を与えようか。願え」と言われ、民をさばくために聞き分ける力を与えてくださいと願ったところ、み心にかない、願ったものと同時に、富も誉れも与えると言われました。間もなく、同居している二人の遊女が赤ん坊を自分の子だと主張して、さばきを求めてやってきました。どちらかが、自分の子が死んだので、こっそり取り替えたのです。それを聞いて、ソロモンは、生きている子を切り分けて二人に与えよと言いました。すると、一方が、「殺さないで、あの女に与えてください」と叫んだので、ソロモンは彼女が本当の母親だと宣言しました。
さて、そのような知恵について、28節では「神の知恵が彼のうちにあった」と言います。赤ん坊の出産も死亡も二人だけの家で起こったことで、家族もおらず、助産婦も出産に立ち会っていないでしょうから、二人以外だれも親子の顔を見ていず、どちらが本当の親か、識別のしようがなく、神しかわかりません。それを識別し判定したのですから、神の知恵と言えるでしょう。
しかし、現在、DNA鑑定というのがあって、赤ん坊と親の髪の毛さえあれば、簡単に親子関係を鑑定することができます。すごい時代になったものです。DNA鑑定だけでなく、昔は神しかわからなかったことが今ではわかるようになり、神しかできなかったことができるようになりました。人間はそんな知恵を持ったのです。それで、人間は神に達した、神はいらないと考えるなら、それは愚かなことです。神の知恵はそんなどころではありません。人間の知恵はどこまで行っても有限です。しかし、神の知恵は無限です。無限と比べれば、有限はどんなに大きくても、ゼロでしかありません。人間の知恵がいくら進んでも、神の無限の知恵と比べれば、何も知らないのと同じです。人間が神に達したと思うなら、それこそ高ぶりであり思い上がりです。そんな知恵は悪魔の道具にしかなりません。しかし、私たちがへりくだって、自分たちの無知を告白しながら、現在人間に与えられている知恵を、神に感謝しつつ、恐れつつ使うなら、きっと有益なものになるでしょう。
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