2023年11月9日(木)

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聖書一日一章    列王記第一 15章

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主の目にかなうことを行った。(11節)

イスラエルの南北分裂後、南部のユダ王国では、レハブアム王が死に、その子のアビヤムが王になり、3年治めた後、その子のアサが王になり、41年治めました。アサは敬虔な王で、国内から偶像や忌まわしいならわしを一掃しました。一方、北部のイスラエル王国では、ヤロブアム王の死後、バアシャが謀反によって王になりました。そのとき、王族を皆殺しにしたので、民に金の子牛を拝ませたヤロブアムにある預言者が語ったことがその通りになりました。バアシャはユダ王国を何度も侵略し、アサは防戦に明け暮れ、時には北のアラムの王に金を送って背後からつついてもらいました。

さて、アサについて14節は、「高き所は取り除かれなかったが、アサの心は生涯、主とともにあり、全きものであった」とほめています。国内に散在していた「高き所」、異教の礼拝所は取り除かず、不徹底だったのですが、大目に見ています。大目に見ているという点では、5節でダビデ王について、「主の目にかなうことを行い、ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことからそれなかった」と言っていますが、同じです。ウリヤから妻バテ・シェバを奪った罪だけでも、ほめられるに値しません。私は、このように大目に見ていることに、少し違和感を感じていましたが、今回一つの視野が開けました。王のように大きな権力を持ち、人々の上に立つ立場では、罪を犯さないでいることがきわめて難しいということです。凡人であれば、悪い欲望を抱いても、大それたことはできず、心の中だけで済むところ、そういう人は実行できてしまうからです。また、凡人であれば、間違ったことをしたとき、「ごめんなさい」と謝るだけで済むことが多いのに、そういう人の場合には、多くの人が死んだり、多くの人の人生を狂わしたりし、重い責任を問われるからです。また、凡人であれば、罪を犯しても、だれにも知られずに済むところ、そういう人の場合には、広く知れわたるからです。王のような立場にあって、完全無欠でいることは、不可能と言ってよいでしょう。王であって完全無欠なのはキリストだけです。それを考えると、罪人である私たちにとって、地位もなく、権力もなく、無名の凡人であることは、幸いなことです。取るに足りない者であることを感謝しましょう。

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