2023年11月15日(水)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章    列王記第一 21章

_____________________________________________________________________________

主にかけてあり得ないことです。(3節)

イスラエル王国では、アハブが王でしたが、バアル崇拝者の妻イゼベルが主導権を取っていました。アハブはある町に別荘を持っていて、園芸の趣味があり、隣りのナボテという人のぶどう畑をほしかったので、相当な値段で売ってくれるように頼みました。しかし、ナボテは「先祖のゆずりの地を譲るなど、主にかけてあり得ないことです」と断りました。そのため、アハブは不機嫌になり、その理由を聞いたイゼベルは、よこしまな者に悪い証言をさせ、ナボテを死刑にしてしまいました。しかし、アハブがその畑に行くと、預言者エリヤがいて、その悪を責め、王家の滅びを宣告しました。アハブは悔い、非を認めたので、神は、生きている間は安泰だと告げられました。

さて、ナボテが、ぶどう畑の譲渡を、王の頼みなのに、また、十分な代価を支払うと言うのに断ったのは、イスラエルの土地は神が先祖に与えられた土地で、譲渡を神によって禁止されていたからです。アハブが不機嫌になったのは、単に欲しいものを得られなかったからですが、イゼベルがナバルを殺したのは、「あなたは王権を得て(いるのに何を言っているのですか)」と言ったように、王権が侮られたからであり、王権の至上性を守るためでした。神を崇めるナバルにとっては、神の定めが至上の権威なのですが、イゼベルにとっては、王権が至上の権威であるべきなのです。つまり、ここで、神の定めと王権とどちらが上かという問題が起こっているのです。これは現在的な問題です。国の法律は、神の定めではありませんが、それでも、多分に神が人間に与えられた良心に基づくものです。しかし現在、かなり多くの国で、権力者が法律以上の力を持ち、法律を曲げることもできるようになり、そのため、民主主義も人権も守られないということが起こっています。

そんな中で、私たちはナボテと同じように、神の言葉、神の定めを至上の権威と考える者です。私たちは、国の権力者とぶつかることはまずないでしょうが、自分が属する団体や組織で、あるいは家庭で、一番力のある人がワンマンであれば、ぶつかるかもしれません。ただ、私たちは自分で戦う必要はありません。王であるキリストがともにおられるので、任せましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成