2023年11月22日(水)

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聖書一日一章    列王記第二 6章

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アラムの王はこれを包囲した。(24節)

預言者エリシャの活動を記しています。当時イスラエル王国はアラムに侵略されていましたが、エリシャは神から敵軍の位置を示されて、王に知らせていました。そのうち、アラムの王は、エリシャが自分たちの位置を知らせていることに気づき、略奪隊を送って彼の家を包囲しました。エリシャの召使いが朝起きて軍勢を見て、驚き恐れたとき、神が彼の目を開かれると、彼らを守る神の火の戦車が山に満ちていました。さらに、神は軍勢の目をくらまされ、彼らはエリシャに先導されるままイスラエル王国の都に行きました。王は彼らを殺そうとしましたが、エリシャがパンと水を与えてもてなすように勧めたので、そうしました。23節には、「アラムの略奪隊は二度と侵入しなかった」とあります。悪に対して親切をもって報いたことは、荒くれの兵士たちの心を和らげ、敵意をなくし、そこに奇跡的な平和が生まれました。報復は報復を生み、報復の連鎖となりますが、愛はその連鎖を止めます。

たしかに親切にされた略奪隊の兵士たちはそうでした。しかし、アラムの王は反対に怒り、今度は正規軍を率いて攻めてきて、都を包囲しました。都の中は窮乏し、自分の子どもを煮て食べる女まで出ました。そのため、イスラエルの王はエリシャを恨みました。エリシャの勧めで、親切にしたから、こうなった、あのとき、全員を殺しておけば、アラムの王は恐れて攻めて来なかった、エリシャのせいだ、と考えたのです。そういうことがあると、主の言葉に従って敵を愛することが、敵を利することになり、自分自身にも、自分の仲間にも、国にも、損害を与えることがあるということになります。主の言葉に従って良いことをすれば、良い結果になるはずなのに、争いと競争に満ちたこの世界では、必ずしもそうはならないのでしょうか。それなら、安心して主の言葉に従うことができません。ほんとうにそうでしょうか。次の章にその答えがあります。神は、包囲しているアラムの軍勢に、どこからともなく大軍勢のざわめきを聞かせられ、恐れさせ、追い払われたのです。神は、神の言葉に従ってした行動に責任を取ってくださいました。私たちが主の言葉に従って良いことをするときに、主は必ず責任を取ってくださいます。

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