2023年11月23日(木)

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聖書一日一章    列王記第二 7章

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いのちからがら逃げ去った。(7節)

預言者エリシャは、アラム軍の襲来を何度も予告して防ぎ、エリシャを殺そうとして送ってきた略奪隊を、目をくらまし都へ誘導して捕らえ、かえってもてなして帰しましたが、アラムの王はその親切を仇で返してきました。アラムの大軍が攻めて来て都を包囲したので、大変な窮乏状態に陥り、イスラエルの王は、こんなことになったのはエリシャの甘いやり方のせいだと、彼を殺そうとしましたが、エリシャは「明日の今ごろ」窮乏から解放されると預言しました。その時点では、王の侍従が「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか」と言ったほど、ありえないことでした。

ところが、町の外に隔離されていたツァラアトの病人たちが、町からの食糧支給が途絶えたので、どうせ死ぬのならと、アラムの陣営に物乞いに行くと、もぬけの殻でした。彼らは残してあった食糧や金目の物をあさっていましたが、こんな良いことを自分たちだけのものにするのはよくないと考え、町に知らせたので、人々が出てきて、多くの食糧を集め、エリシャの預言通り窮乏から解放されました。

さて、戦争でいのちが脅かされるような時は、すべての人が恐れに包まれます。そして、恐れに包まれる時は、最悪のことを考えるものです。町の人々はこの窮乏状態がずっと続き、一人、一人と死んでいくと予想しました。ツァラアトの病人たちは、弱い立場なので自分たちは死ぬしかないと思いました。包囲しているアラムの軍は、優位に立っていても、戦争というのは、何が起こるかわからないので、やはり恐れに包まれていました。それで、物音がすると、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎに聞こえ、イスラエルに雇われたヒッタイトやエジプトの軍だと思って逃げたのでしょう。

それにしても、町の人で、神が救ってくださると期待する人はいなかったのでしょうか。それは残念なことです。しかし、私たちも恐れに包まれるとき、最悪のことしか考えないのではないでしょうか。恐れに包まれるとき、神が救ってくださると確信できるように、そのときのために今から備えましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成