2023年11月30日(木)

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聖書一日一章    列王記第二 14章

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ただ自分の罪過のゆえでなければならない。(6節)

南部のユダ王国では、ヨアシュ王が40年に渡って治めた後、家来たちの謀反によって死に、その子のアマツヤが王になりました。アマツヤはまあまあ神の言葉に従った王でしたが、エドムに勝利したあと、北部のイスラエル王国に対し戦争を仕掛けました。しかし、大敗し、捕らえられ、エルサレムの城壁を壊され、多くの財宝を奪われました。

さて、アマツヤは、王権を確立し、自分の立場が強くなると、父王を謀反によって殺した家来たちを処刑しました。それについて6節には次のようにあります。「その殺害者の子どもは殺さなかった。モーセの律法の書に記されているところに基づいてのことであった。『父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。』」申命記24章16節にそういうみ言葉があるので、それに従って、子どもは殺さなかったというのです。父と子は別の人格ですし、父が罪を犯しても、子には責任がないはずですし、子が罪を犯しても、小さくて親に監督責任がある場合を除いて、親には責任がないはずです。この原則はきわめて理にかなっています。しかし、人間的にはこの原則に従うことは難しかったでしょう。人間的な感情として、自分の家族がだれかに殺されたりすると、殺した人だけでなく、殺した人の家族も憎くて赦せないものです。また、アマツヤと家来たちのように権力者たちの場合には、子どもを生かすと、子どもが大きくなって力を持ったときに復讐される危険があるのです。このように神の言葉に従うことは、時には人間的な感情に反し、時には実際的な困難をともなうものです。

それでも、神の言葉に従うことは、幸いなことです。それを私たちの主キリストが身をもって証明されました。「自らを低くして、死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」(ピリピ2:8-9)そのキリストがヨハネの黙示録3章10節で、クリスチャンたちに言われます。「あなたはわたしのことばを守ったので、全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。」

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