2023年12月4日(月)
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聖書一日一章 列王記第二 18章
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おまえは何に拠り頼んでいるのか。(19節)
イスラエル北部のイスラエル王国は滅びましたが、南部のユダ王国は、天の神を敬わず外国の宗教を躊躇なく取り入れたアハズ王が死に、敬虔なヒゼキヤが王となりました。ヒゼキヤは外国の宗教を取り除くことに努力しました。そのうち、アッシリアのセンナケリブ王が攻めてきたので、いったん降伏し、要求された金銀を渡しましたが、それではすまず、再び攻めてき、防備の町アキシュを攻め、そこから将軍たちをエルサレムに送り、降伏を迫りました。
さて、アッシリアの将軍は、ヒゼキヤに使者を通して、「いったい、おまえは何に拠り頼んでいるか」と問いかけました。そして、ヒゼキヤが期待しているエジプトの援軍は期待できないこと、アッシリア軍の戦力がどれほどのものか、これまでどれほどの国々を征服し、どれほどの実績を上げてきたか、降伏するならどんな保証があるのかを話しました。とても具体的・現実的です。それに対し、ヒゼキヤには具体的・現実的な勝算は一つもありませんでした。これだけを考えるなら、将軍は正しく、ヒゼキヤは間違っています。しかし、ヒゼキヤには確かな勝算がありました。全能にして無敵の神が味方であることです。アッシリア軍がどんなに大軍で、どんなに強くても、全能の神の前には虫けら同然です。その神が味方であれば、敗れるはずがありません。しかし、神を信じないアッシリアの王や将軍には、20節で言うように、「口先だけのことば」であり、たわ言、寝言に過ぎなかったのです。
最近、「精神論」はだめだとよく言われます。その「精神論」とは、「やる気があれば何でもできる」とか、「できないのは根性が足りないからだ」とか、「願えば、必ず願った通りの自分になれる」とかの言い方のことです。しかし、これは一部分は真理でも、一部分は間違っています。人間の精神は信じられないほど可能性を秘めていますが、限界があり、全能ではありません。精神の力でどんなこともできるはずがありません。ですから、精神論はだめなのです。神を信じない人には、キリストへの信仰も精神論に見えるでしょう。しかし、私たちは人間の限られた精神を頼りにしているのではなく、全能にして無敵の神の霊を頼りにしているのです。
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