2023年12月9日(土)

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聖書一日一章    列王記第二 23章

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ヤロブアムが造った高き所を打ち壊した。(15節)

ユダ王国のヨシヤ王は非常に敬虔な王で、天の神を敬わなかったマナセ王の長い治世に荒れすさんだ神殿を修復し始め、その工事のための献金を献金箱から取り出していたときに、そこに隠されていた律法の書を発見しました。ヨシヤはその書によって、自分たちイスラエル人がどれほど神に背いてきたかを知り、国中の長老たちとエルサレムのすべての人を集め、その書を読み聞かせ、その言葉を守り行うと神の前に誓わせました。そして、外国の宗教のものを、まず神殿から、次にエルサレムから、そしてユダの町々から、さらには北部のイスラエル王国の領域まで取り除きました。ヨシヤは神に忠実に歩みましたが、人生の最後に、アッシリアと戦うために北上してきたエジプト軍を迎え撃つという余計なことをして戦死してしまいました。

さて、ヨシヤが外国の宗教のものを取り除かなければならなかったのは、悪いマナセ王のせいだと思っていましたが、よく読むと、そうではありません。13節には、「王は、高き所を汚れたものとした。これは、イスラエルの王ソロモンが、シドン人の忌むべき女神アシュタロテ、モアブの忌むべき神ケモシュ、アンモン人の忌むべき神ミルコムのために築いたものであった」とあります。なんと、数百年も前にソロモンが外国の神々のために築いた宗教施設がそのまま残っていたのです。また、15節には、「ネバテの子ヤロブアムが造った高き所を打ち壊した」とあります。北部のイスラエル王国の初代の王ヤロブアムが造った金の子牛と祭壇がそのまま残っていたのです。神にそむくものがたくさんあったのは、多くの王たち、多くの人々が、神にそむくものを残してきたからです。神がご自身を示し、み言葉を与えられたイスラエルでもこんな状態ですから、ほかの国は言うまでもありません。どこの国も神にそむく人間が神にそむくものを残し、年月とともにどんどん蓄積しているのです。ですから、ヨハネはその手紙第一2章で言います。「世も世にあるものも、愛してはいけません。すべて世にあるものは、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」そんな世界で、私たちは神の憐みにより、キリストの贖いにより、聖霊の力により、新しく生まれ、神の子になりました。この世界で生きることに抵抗があるのは当然です。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成



木曜日の分をアップするのを忘れていましたので、
ここに掲載しておきます。




2023年12月7日(木)

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聖書一日一章    列王記第二 21章

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五十五年間、王であった。(1節)

ユダ王国のマナセ王は、敬虔なヒゼキヤ王の子なのに、天の神をまったく敬わず、外国の宗教やならわしを野放図に取り入れ、国民にも広めたので、神は王国を近いうちに滅ぼすと宣告されました。実に、最低最悪の王です。たしかに、信仰の視点で見ればそうでしょう。しかし、この世的な視点で見れば、どうでしょうか。マナセは、1節のように55年間に渡って王として治めました。これは、イスラエル王国とユダ王国の王たちの中で最長です。その間、謀反がなく、戦争もありませんでした。そして、18節にあるように、安らかに死に、葬られました。マナセはかなり良い統治をしたと言えます。このような統治ができたのは、強いアッシリアに貢を納めて従属し、他の国々ともうまく折り合ったからです。外国の宗教を取り入れたのも、その外交政策の一環でしょう。マナセは、この世的には、成功したと言えるのでしょうか。その生き方は、信仰を抜きにすれば、良い生き方なのでしょうか。

私はそうではないと思います。マナセの生き方は、いわゆる八方美人の生き方です。八方美人というのは、誰にでも愛想よく振る舞う人のことです。誰からも好かれるうまい世渡りの術のようですが、実は世間では、あまりよく思われていません。ほめ言葉よりも皮肉として言われることが多いです。実際、自分の意見がない、本音を言わない、本当の自分を見せない、何を考えているのかわからない、言うことと行動がちぐはぐだ、といった印象を持たれがちです。また、本人も、自分というものがわからなくなったり、心から信頼できる友だちがなかったり、人前では笑顔でも、一人になると暗かったり、疲れ果ててしまったりと、悩みが多いのです。マナセも、歴代誌第二33章11節によると、晩年、貢を納めていたアッシリアの王に捕えられます。

人の顔色を見て生きる生き方はむなしいものです。むしろ、この世界を治めておられる神の顔色を見て、神に喜ばれる生き方をしましょう。私たちはなかなか神に喜んでもらえませんが、キリストを信じていると、神はあらゆる無作法を赦して喜んでくださいます。そして、神に喜ばれると、神がきっと人からの愛顧や信頼できる友だちを与えてくださるに違いありません。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成