2024年1月24日(水)

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聖書一日一章    歴代誌第二 15章

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アザルヤに神の霊が臨んだ。(1節)

イスラエルの南のユダ王国では、敬虔なアサ王が異教の偶像や祭壇を取り除く改革を行い、攻めてきたクシュの大軍を撃退しました。エルサレムに帰ったとき、アザルヤという預言者が、神を見失っていた時期には、どんなに騒乱が多く平安がなかったかを思い出させ、ますます神を慕い求めるように励ましました。すると、アサはその言葉に奮起し、異教の排除を進め、国民集会を開き、全員で神を慕い求めていくという誓いを立てました。

さて、1節には、「オデデの子アザルヤに神の霊が臨んだ」とあります。イスラエルの神は目に見えない神です。ほかの国の神々のように偶像を造って拝むような神ではありません。触れることができず、存在を確かめることができません。その神との接点は預言者でした。預言者は神とのほとんど唯一の通信の経路と言ってよいでしょう。とはいえ、預言者ならいつでも神と通信できたかと言うと、そうではありません。ほとんど神からの一方的な通信であり、預言者は待つしかありませんでした。ですから、預言者に神の霊が臨んだ時というのは、人間が神に触れる厳かで貴重な時でした。

しかし、時が来て、神の子であり、神であるお方が、人間としてこの世界に入ってこられました。弟子となった者たちは、神に触れ、神と話をすることができました。ヨハネはその手紙の冒頭で、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことば」と言っています。その方が地上におられたのは短い間だけでしたが、天に昇られてからも、信じる者は聖霊によって、旧約の預言者たちのように、いや、預言者たち以上に神に触れることができるようになりました。旧約の預言者ヨエルが預言した、「終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ、すると彼らは預言する」ということが、信じる私たちに実現したのです。私たちは何と幸いなことでしょうか。

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