2024年2月3日(土)

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聖書一日一章    歴代誌第二 25章

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モーセの書の律法に記されているところに従ったのである。(4節)

イスラエル南部のユダ王国では、ヨアシュ王が戦争で負傷した上に家来たちに殺されるという悲惨な最期を遂げ、子のアマツヤが王になりました。彼は力を持つと、父を殺した家来たちを処刑しました。また、エドムに戦いを挑み、自軍に加えて北部のイスラエル王国の兵を雇ったところ、預言者に反対され、帰しました。結局、エドムに勝利しましたが、エドムの神々を持ち帰り、拝むようになり、預言者に止められても聞きませんでした。その後イスラエル王国に戦いを挑み、その王から「あなたは心高ぶっている。やめておけ」と言われてもやめず、結局、敗れ、最後は謀反によって殺されました。

さて、アマツヤの人生を見ると、何が何だかわからなくなります。家来たちを処刑したとき、4節には、「彼らの子どもたちは殺さなかった。モーセの書の律法に記されているところに従った」とあり、神の言葉を重んじているように見えます。また、イスラエル王国の兵を雇ったことを預言者に反対されたときも、聞き入れました。すでに払った大金が惜しくてあきらめ切れなかったところ、預言者の「主は、それより多くのものを、あなたにお与えになる」という信仰的な言葉で納得しました。それなのに、エドムの神々を拝んだり、預言者の警告を無視したりし、神がイスラエルの王の口を通して語られたに違いない「あなたは心高ぶっている」という言葉も無視しました。

アマツヤは、最初は信仰的だったのに、エドムに勝利して高ぶり、信仰を捨てたのでしょうか。私はそうは思いません。たしかに、エドムに勝利して、高ぶりましたが、それまでも、自分にまだ自信がなかったので、モーセの書の律法や 預言者には 従っていただけのように思います。神のしもべには なっていなかったのではないでしょうか。イザヤ書57章15節で、神は「わたしは、高く聖なる所に住み、へりくだった人たちの霊を生かす」と言われます。人は、心の高ぶりを砕かれ、へりくだって神のしもべになるまでは、弱さのために謙遜に見えても、心の中には高ぶりがあるのではないでしょうか。もし私たちがキリストにより、聖霊によって、心の高ぶりを砕かれ、自分を神のしもべだと思っているなら、それは幸いなことです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成