2024年2月4日(日)
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聖書一日一章 歴代誌第二 26章
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主が彼を打たれたからである。(20節)
イスラエル南部のユダ王国では、ウジヤが王となりました。5節には、「神を認めることを教えたゼカリヤの生きていた間、彼は神を求めた。また彼が主を求めていた間、神は彼を栄えるようにされた」とあります。ウジヤは信仰的な人で、神を重んじたので、祝福され、領土を広げ、周辺の国々を従え、軍を増強しました。しかし、16節には、「強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた」とあります。ウジヤは、神殿に入り、香を焚こうとしましたが、それは祭司だけに許されたことで、たとえ王でも、してはならないことでした。ウジヤは高ぶり、王である自分は、どんなことでもしてよいはずだと考えたのでしょう。祭司たちがやめさせようとしましたが、ウジヤが怒り、強行しようとしたところ、額に不治の皮膚病ツァラアトが現れました。そのため、死ぬまで隔離された家に住むことになりました。
20節はこのことを「主が彼を打たれたからである」と言います。一般に、さばき主である神は、人が高ぶったり悪を行ったりするときに、何もなさらないことはありません。ご自身の正義に従って、ふさわしい苦痛を与えられます。つまり「打たれる」のです。これが罰かどうかとなると、完全な罰は最後の審判で与えられますので、むしろ警告的な意味が強いでしょう。そのことは、神が「打たれ」たときに、一番痛みを感じるのが神を信じる人々だということからわかります。神を信じない人々は、運が悪かったと思うだけですが、神を信じる人々は、痛みだけではなく、神の怒りを感じ、恐れるのです。ウジヤも、「彼らは急いで彼をそこから連れ出した」とあるだけでなく、「彼自身も急いで出て行った」とありますから、神の怒りを感じ、恐れ、逃げるように出たのです。書かれていませんが、ウジヤは、その後きっと深く悔い改めたことでしょう。隔離された家で、静かに祈りの日々を過ごしたかもしれません。だとすれば、神を信じる人々にとっては、罰どころか、神のお取り扱いであり、神に出会う時だと言えます。私たちも「打たれる」ときがあり、そのとき、苦痛も神の怒りも感じますが、悔い改めを求めておられるだけで、ほんとうに怒っておられわけではありません。本当の怒りと罰は、実はキリストに下されたのです。神が本当に打たれたのはキリストです。
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